"CAXAPOB" (2003) archive
文章とデータはすべて発表当時のままになってます。事実誤認やリンク切れなどはご容赦ください
[2003. 11. 26]  Air #185 をアップロード。

[2003. 11. 25]  Air #184 をアップロード。

[2003. 11. 23]  Air #183 をアップロード。

[2003. 11. 19]  Air #182 をアップロード。

[2003. 11. 12]  Air #181 をアップロード。

[2003. 11. 05]  Air #180 をアップロード。

[2003. 11. 02]  Air #179 をアップロード。

[2003. 10. 31]  Air #178 をアップロード。

[2003. 10. 26]  Air Trans Europe 終了。

[2003. 10. 15]  Air #177 をアップロード。

[2003. 10. 14]  Air #176 をアップロード。

[2003. 10. 13]  Air #175 をアップロード。

[2003. 10. 08]  Air #174 をアップロード。

[2003. 10. 01]  Air #173 をアップロード。

[2003. 09. 28]  Air #172 をアップロード。

[2003. 09. 23]  ウェブ上の表現ということについて
その後、国際コラボレーションは順調にテイクオフして、水平飛行に移った。あとは100日間という日常時間と戯れるだけである。日常になってしまえば、強い。日常のやり過ごし方に関して、われわれウェブ写真家はちょっとしたエキスパートなのだ。どうしようもない無変化の中を、楽しく飛ぶ術を心得ている。虚無感、シニシズム、ネガティブな言葉の弄び、そんなものは不要。ただひたすらイメージの生成と付き合う生活があるだけだ。イメージが生成され、それが地球上のここではないどこかへ舞い降りる。そのことに無邪気な楽しさを感じられなければ、ウェブ世界に生きて写真家稼業を張る意味はない。ウェブは表現でなく日記です、だと? とんでもない。それはこのシステムの持つ可能性に対してそれこそ失礼というものである。地球の裏側にいる他の認識の主体と、イメージを取り交わすことのできる価値を正当に祝うことのできないひねた魂は、即刻この世界からご退場願いたい。この世界規模の遊び場を縦横無尽に遊び尽くすこと。それがやれてこそこの時代のアーティストというもんだろうが。あんたのデータのパケットは、地球の反対側にも簡単に到達することができるんだ。ただしあんたが魅力あるデータを供給できればの話だ。これがネット時代の価値なんだ。ローカルエリアをぐるぐる回っているパケットは、排泄物のような単なるノイズなんだってこと。


[2003. 09. 19]  Air #171 をアップロード。

[2003. 09. 18]  国際コラボ、何とかスタート
リトアニアのイグナスとの国際コラボ、今朝9時からスタートした。で、さっそくトラブっているらしい(笑)。今回のコラボは、コラボと言ってもすべて彼のFlashプログラミングに依存しているようなもので、わたしは単に毎日、画像をアップするだけなのだ。画像が予定通り見えないといって気を揉んでも仕方ないので、じっくり構えることにした。100日もあるのだし、ある程度画像がたまらないと意味がはっきり見えてこない、ということもある。わたしも彼も普段、英語を使う生活をしていないので、準備期間中はとても第三者には見せられないような、メチャクチャな英文メールが飛び交った。それがなんとも、おかしい。よく考えてみると、直接会ったこともないアーティスト同士が、ギャラリーやら介在者のとりなしがない状態で、共同で作品を作り上げるということは今まで考えにくかった。それが今、実際にできている。いろいろ問題があるにせよ、できていることは重要だし、素晴らしいことなのだと思う。もちろんそんな裏話よりも実際の作品が面白くなるかどうかが問題であることは、言うまでもない。 Air #170 をアップロード。


[2003. 09. 11]  国際コラボレーションの可能性
ウェブ上で知りあったリトアニアの写真家、イグナス・ウルボナスと二人コラボレーションをやることになった。これまでウェブフォトのコラボレーションは国内の作家間でしか成立しないものと思っていた。しかしここへ来てわれわれの考えも少しずつではあるが、海外へ浸透しているようにも思われる。だいたいにおいて、現実空間のギャラリーをベースにしない写真展、というものは海外ではほとんど理解されない。デジタルが写真界を席巻してもファインアートフォト・シリアスフォトの領域には関係がない。むしろいっそうの保守化が進んでしまっているようにも見える。ウェブはあくまでアーカイブ、あるいは作品紹介という旧態然とした位置に置かれたままだ。そんな中でウェブベースの写真表現行為に根底部分で共鳴する海外の作家が現れるようになったことは、単純にうれしい。しかもそれがヨーロッパの非西欧圏、失礼ながらマイナーな地域との接続であるところに何か意味深いものを感じる。ヨーロッパもイギリス、ドイツ、フランスなんかはガチガチの構造ができ上がってしまって、柔軟な表現形態(単なる表層的な表現スタイルではなく、もっと作家のあり方として根底的なもの)が取れないのではないかなどと勘ぐりたくなる。あるいは何か目新しいことを始めるやいなや、既存の資本をバックにした美術業界のシステムにさっと取り込まれてしまうのだ。旧ソ連地域には多分それがない。小林のりお、高橋明洋の個展がロシアで行われたという現象も、それを裏付けるものだろう。旧ソ連地域は経済的にボロボロだが、そんな中にもネットは浸透して、旧来の価値構造が崩壊した廃虚にツタが絡まるように、「新しいやり方」が繁茂しだしている。そう思うことにする。


[2003. 09. 09]  Air #169 をアップロード。

[2003. 09. 07]  Air #168 をアップロード。
Adieu Photograph - D サイトでこっそりと「Air Trans Europe」スタート。


[2003. 08. 19]  Air #167 をアップロード。

[2003. 08. 18]  Air #166 をアップロード。

[2003. 08. 11]  Air #165 をアップロード。

[2003. 08. 09]  Air #164 をアップロード。

[2003. 08. 05]  Air #163 をアップロード。

[2003. 08. 02]  Air #162 をアップロード。

[2003. 07. 30]  Air #161 をアップロード。

[2003. 07. 24]  Air #160 をアップロード。

[2003. 07. 23]  Air #159 をアップロード。

[2003. 07. 22]  Air #158 をアップロード。

[2003. 07. 20]  Air #157 をアップロード。

[2003. 07. 18]  Air #156 をアップロード。

[2003. 07. 16]  Air #155 をアップロード。

[2003. 07. 09]  Air #154 をアップロード。

[2003. 07.06]  ゼミ展スタート
今年も前期ゼミ展の季節になった。まずは今日の0時から3年web展が始まっている。今年はどうやら微妙なテーマを選んでしまったようで、これから1週間の展開が思いやられる。精神の臨界核実験になるかもしれない。夢からエネルギーを取り出そうと考えたのだが、炉心が制御不能状態に陥らないように願うばかりだ。


[2003. 07. 05]  Air #153 をアップロード。

[2003. 07. 02]  Air #152 をアップロード。

[2003. 06. 29]  Air #151 をアップロード。

[2003. 06. 25]  Air #150 をアップロード。

[2003. 06. 22]  Air #149 をアップロード。

[2003. 06. 16]  Air #148 をアップロード。

[2003. 06. 11]  Air #147 をアップロード。

[2003. 06. 05]  Air #146 をアップロード。

[2003. 06. 04]  Air #145 をアップロード。

[2003. 06. 03]  Air #144 をアップロード。

[2003. 05. 30]  Air #143 をアップロード。

[2003. 05. 28]  Air #142 をアップロード。

[2003. 05. 27]  Air #141 をアップロード。

[2003. 05. 25]  Air #140 をアップロード。

[2003. 05. 23]  Air #139 をアップロード。

[2003. 05. 22]  サイトごと消える、軽さ。
三宅章代のサイトが過激になった。リンク集やら何やら、いわゆるお約束のコンテンツを全部放擲して、作品だけで勝負を挑んでいる。しかも最後のイメージのクリックと同時に、なんとウィンドウごとすべて消滅するのである。終っても本体がだらだら残っていたりなど、しない。見終わったらさっさと消えるのがデジタルの作法だよ、と言わんばかりの始末の良さ。サイトごと消える、という身のこなしの軽さ。その潔いふるまいにちょっと感動している。今までこれをやった者は誰もいなかったのだ。今日のトップには東京都写真美術館の「ズレ」に対するいらだちが、彼女なりの優しい言い回しで書かれていた。でもその背後には相当な毒が覗いているのだ。「今の写真」という現象と、弱いながらもある種の権威がそれをのさばらせていること。ある人たちが死にそうな患者=写真にだらだらと、あてのない延命措置を施しているということ。もちろん三宅章代はそんなことまでぐだぐだ書いていないが、そのいらだちの根底にあるものまで見抜いているに違いない。
小林のりおが昨日書いている。『「写真 (イメージ) は手で破くことができない」それが「写真」ということ』。ウェブ上の現象をまともに見ないことには、もはや写真を語ったことにならないということだ。イメージは決して物質などではないという単純な事実。それにまだ気づかないおめでたい評論家たち。いよいよ哀れなものだと思う。


[2003. 05. 21]  Air #138 をアップロード。

[2003. 05. 17]  Air #137 をアップロード。

[2003. 05. 16]  Air #136 をアップロード。

[2003. 05. 14]  Air #135 をアップロード。

[2003. 05. 13]  写真的アクチュアリティ。
いわゆる写真家業界、の中には入っていないつもりだ。しかし日ごろからあちこちで写真の話をしている。そんな自分の存在が、断層上の建物のように思えることが時々ある。大きなズレの上にまたがって立っているような居心地の悪さ、とでも言おうか。ウェブ写真以外の写真にほとんど興味が持てなくなっている。大嶋浩の言う「写真的アクチュアリティ」の欠如がいよいよはっきりと感じられるから。バルトがプンクトゥムを言い出してからこの方、写真家たちは自分の生きている時間の中にそれを無理やり表出させようと無駄に力んでいないか。時間的距離感を必要以上に意識してそれを演出していないか。必要以上に寝かされて練りあげられたイメージは、写真的アクチュアリティを減じることを考えたことはないのだろうか。Pascal Nietoの日記写真のページをぼけーっと眺めていたら、彼のおそらくパリでの生活の断片が、何の意図もなく投げ出されているようなイメージがあった。向こう側にある実在がイメージとなって飛んでくる。こっちのイメージも同じように飛んで行ったことだろう。地球を半周して日常生活の断片イメージがネット上で交錯する。一瞬、アクチュアリティが発火する。イメージをこねくり回して作り上げるのでなく、イメージを飛ばしてぶつけること。誰かのおぜん立てに乗ってメディアを借り、イメージの広まっていくのを誰かの力にゆだねるのではなく、ロデオよろしくネットワークメディアという荒馬を乗りこなし、コントロールの欠如という事態にもみくちゃにされながら、イメージを撒いて回ること。まさに今を生きている感じがする。


[2003. 05.11]  Air #134 をアップロード。
フランス語のよくわかんないアートなサイトで紹介してもらっている。Pascal Nietoさんの個人サイトらしい。googleのLanguage Toolsを使って英訳して読んでみると、東洋の都会の仰天(文字通り!)なイメージを見に行ってごらんみたいに書いてあって、ちょっとうれしくなった。美術館とかキュレーターとかの妙なフィルターを通さない、鮮度の高い「日常」イメージの流通ができるってことがweb写真の基本だったんだよな。原点に戻って考えてみると、われわれは今、かなり喜ばしい環境にいるのだということがしみじみとわかる。そしてその環境はまだ十分に使いこなされてはいないのだということも。webの力を信じ、前を向いて歩いて行こうではないか。


[2003. 05. 07]  Air #133 をアップロード。

[2003. 05. 03]  Air #132 をアップロード。

[2003. 04. 29]  Air #131 をアップロード。

[2003. 04. 27]  常に変化の中にあるということ。
全然連休にならない日曜日、かねてから目論んでいた、Mac OS Xへの環境移行に取り組んでいる。やらなきゃやらなきゃと思って2年が過ぎてしまった。「こんなもん使えねえ!」と言ってりゃ済んだ時期はもうとっくに過ぎてしまい、OS9にしがみついているのが今や年寄りみたくなってきたということもある。しかし最大の原因は新入生に「学校では9なのに家ではXなんですぅ(困りますぅ)」と言われたことにある。こりゃあまずい。ちょっとさぼりすぎた。遅れを取り戻そう。すぐに、だ●家のはver.10.1だが大学で個人的に使ってるのは10.2で、10.2は意外や完成度が高くなっていた。ターミナルがあるのを見つけてシェルで使ってみて驚いた。これはまんまBSD!である。思えば最初の接触が不幸だった。OSXサーバ。うわ、これってNeXTの亡霊じゃーん、と思った。NeXTってファイル構造がなじめなかった。ディレクトリ名がやたら長いのよ。もう忘れたけどたとえばdocと略すところがdocumentsとなっているような。要するにUNIXの一種なんだけど、自分の持っている(BSD系の)地図が使えない街に迷い込んだような違和感があった。その印象が強すぎて、どうせOS XもNeXTっぽい構造になっているものと勝手に思い込んでいた。しかし実際は違って、自分の地図がちゃんと使えた。構造やコマンドがBSDそのもの、だった。こうなればしめたものである。BSDとMacが合体してしまったわけだから、両方で飯を食わせていただいたわたしにとっては二つの祖国が合併したようなもんである。ちょっと信じられない。透けるターミナルでコマンドたたきながらこれ打ってるんだからね●なるべくClassic環境に戻らないで済むようにCarbonアプリを一つずつ、インストールするのはなかなか時間がかかる。しかしこの手間を惜しんではならないのだろう。環境は変化するものである。不変を指向してはならない。なぜならわれわれの肉体が不変ではないからだ。われわれの存在は不変ではないからだ。変化こそが存在の本質である。時間軸上の変化を持たないものは、時間軸上の存在であるわれわれにとって意味を成さないのだ。


[2003. 04. 23]  イメージの安定・不安定。
なぜ、イメージには安定したイメージと不安定なイメージがあるのか。安定したイメージをもたらすのが制御の意志とすれば、不安定なイメージは単にその放棄を意味するのだろうか。これは上下反転や傾きの問題だけに限定されない。むしろ動いている対象を指し示すイメージが静止しているという事実自体が、実は大変な不安定さを孕んでいるのではないか。直接の視覚では静止した状態として見ることができないものをイメージとして現出させてしまえば、それは本来的に不可知のものであり、不可知のものとの対峙は少なくとも慣れるまでは安定性をもたらすとは思えない。要するに「止まって見える」というのは、本当はかなり気味の悪いものなのだ。しかしわれわれはそれに慣れてしまっている。気味の悪くない、飼いならされた静止画像を作り続けてきたからだ。それに抗してみることに興味がある。さまざまなレベルにおいて、「イメージの不安定さ」とは何かを考えてみたい。不安定とは、安定の反対概念ではない。安定という極、つまり峰を築いているその下の低山のまどろっこしい連なり。それはイメージという現象を支えている何か、に違いない。あるいは安定という上澄みの下にある、カオティックな混濁溶液かもしれない。イメージというものを後ろで支えるカオスに興味が湧いてきた。


[2003. 04. 22]  Air #130 をアップロード。

[2003. 04. 20]  Air #129 をアップロード。

[2003. 04. 18]  Air #128 をアップロード。
朝から夜までほとんどずーっとしゃべっていた。大声で話をするのはかなり体力を消耗するらしく、半分寝ながらデータを編集して今やっと上げた。今日の日付を間違えた。脳ミソがぐちゃぐちゃになっているようだ。土曜日だというのに明日も授業だ。


[2003. 04. 16]  Air #127 をアップロード。
ひたすらに、坦々と、画像生成の流れに身を委ねる日々。


[2003. 04. 14]  Air #126 をアップロード。

[2003. 04. 08]  Air #125 をアップロード。

[2003. 04. 06]  Air #124 をアップロード。
デジカメ復旧。


[2003. 04. 05]  Air #123B をアップロード。

[2003. 04. 04]  Air #123A をアップロード。

[2003. 04. 03]  Air #122 をアップロード。
わずか1週間前の南国の光景が、限りなく遠くに感じられる。それが別にイヤだというわけでもない。スピードに対する耐性がついてしまっているのだ。立ち止まって考えるのはもっと年寄りになり、足腰が立たなくなってからでも遅くはない。今はただ、ずっとずっと走っていたい気持ちだ。


[2003. 04. 02]  Air #121 をアップロード。
デジカメはまだ丸裸状態のまま。したがってあと数日間は、約1週間前に撮影した「南国Air」を1日分ずつ上げます。鮮度の落ちたアップロードで申し訳ないような気がしている。


[2003. 04. 01]  Air #120 をアップロード。

[2003. 04. 01]  デジタル・レーシング。
先日、ロシア展コラボが終わったばかりだが、今度は デジタル・レーシングが始まった。若手の活躍が続く。デジタルの目を使って「今」「ここ」を徹底的に見ること。マスメディアから吐き出される映像に一喜一憂するのでなく、安易な気分で何らかの運動に言葉で迎合するのでなく、自分の目で自分の頭を使って自分の足で立っているこの場所を、徹底的に考え抜くこと。それしかないんだ。


[2003. 03. 30]  本日帰国。
ちょっと撮影旅行に出ていた。昨日、船着場でデジカメを落とす。割れたボディをバンドエイドで応急修理して帰ってきた。打ち所がよかったらしく(笑)ちゃんと動くのだが、バンドエイドを貼りまくったデジカメは気持ち悪い。仕方なしに外装を分解して割れた部分を接着する。強力接着剤が完全に乾くまではボディが組めない。したがって今日明日はカメラが使えない。情けない。こういう撮り方をしていると、もっともっと丈夫なデジカメが必要なのだろう。


[2003. 03. 24]  Air #119 をアップロード。

[2003. 03. 21]  Air #118 をアップロード。

[2003. 03. 19]  Air #117 をアップロード。
日本カメラ4月号に、読売新聞の前田恭二さんがDriving Airについて書いてくれている。


[2003. 03. 18]  Air #116 をアップロード。
他人のケンカに反対することは誰でもできる。しかしその無関係と思っているケンカの、一方の当事者と運命共同体であるということを、われわれはちゃんと認識しているのだろうか。さらにもし自分が殴られたときにも、われわれは同じように、反対とはっきり言うことができるのだろうか。思考を停止した状態でとにかくやめろと叫んだところで、その後の状況を改善できる方策をわれわれは何も、持ち合わせていないのだ。もっと根源的なレベルで考え直さなければならないことが、あまりにも多すぎる。とりあえず反対しておいて日常に戻る、というような割り切った態度は、無関心であることとそれほど違いはない。とにかくやめろ、というのももちろん、問題を何も解決することはできない。痛いのはいやだ、というレベルのでの反戦の意思表示は、あまりに素朴すぎてお話にならない。そんな意見はどこへ持っていっても通用しない。この湿った地で写真を撮りながら、メディアの向こう側にある乾いた彼の地のことをただ思うだけの日。


[2003. 03. 15]  Air #115 をアップロード。
Driving Air展終了。Web上でのAirプロジェクトはひたすら継続する。われわれの主戦場はやはり、Webだ。


[2003. 03. 14]  Air #114 をアップロード。

[2003. 03. 13]  Air #113A, #113B, #113C をアップロード。

[2003. 03. 10]  Air #112 をアップロード。

[2003. 03. 08]  Air #111 をアップロード。
個展2日目。早くも会場に詰めているのに飽きてきた。ギャラリーのまったりした空間にいながら、気持ちはWebの方へ行ってしまう。若手ロシア展コラボレーションの更新が気になってしまったりするのだ。隅田川沿いの風は強く、まさにDriving air。


[2003. 03. 05]  Air #110 をアップロード。

[2003. 03. 02]  Air #109 をアップロード。

[2003. 02. 28]  Air #108 をアップロード。
わたしのデジタルカメラは光学ファインダーが壊れたままになっている。使わないから全然かまわない。対象を凝視して撮る写真には意味を感じなくなって久しい。逆に、決定的瞬間などという言辞にも、同じく意味を感じなくなった。対象を認識するのはむしろシャッターの直後か、あるいは家に帰ってコンピュータのモニタ上で、ということがほとんどだ。いつだったか、デジタルカメラの機種を選択するのに光学ファインダーの見えを重視する人がいて、ちょっと驚いたことがある。


[2003. 02. 26]  Air #107 をアップロード。
20日ぶりで長時間、外をほっつき歩く。光が変わっていることを感じる。ところで脊髄反射も主体が成した行為とカウントされるのだろうか。


[2003. 02. 25]  Air #106 をアップロード。活動再開の兆し。
入試の仕事、今日でようやく終わり。缶詰めだったこの期間中、ちょっとした時間を見つけて、小林のりお、大嶋浩とメールによるオンライン対談を行う。その内容は大嶋の主宰するフリーペーパー、Déclinaison の特別号に収録される予定。Web写真に関して、ふだんわれわれが話をしている内容を反芻し、問題の再セッティングを行った。個展会場他にて3月7日より無料配布される。


[2003. 02. 16]  完全に停滞。
入試の仕事で大学に缶詰め。アップはおろか、撮影すらできない・・・。25日まではずーっとこの状態。まあそのうち何とかなるだろう。


[2003. 02. 07]  Air #105 をアップロード。

[2003. 02. 05]  Air #104 をアップロード。

[2003. 02. 04]  ちょっと停滞。
「そのような場で生成される画像は、もはや現実の描写という写真画像に負わされた義務を果たさなくともよいかもしれない。そこにおいて画像は現実の描写でなく、ある種の現実そのものに変化する。現実を再現する画像にリアリティが発生することよりも、リアリティそのものとなる画像が存在することが重要なのだ。」このサイトの全体に対するステートメントにこのように書いてあった。自分で書いておいて、すっかり忘れていた。これを書いた当時の思考がちょっと思い出せないのだが、何だかひどく誠実なことを書いたものだという気がしてきた。イメージは現実の再現としてのリアリティを発生させるのではなく、イメージそのものがそれだけでリアリティである(にすぎない)。そこには現実の再現的描写などどこにもない。どこまでも誠実である。ウェブアートとしての写真、と銘打ってあるのだが、別にWebに限ったことではない。この性質はテクノ画像の本性そのものであろう。デジタルやWebでその性質が加速し、一気に発現しやすくなった。このことを自覚的に理解しているひと、直感で理解するひとだけが逆さ画像を落ち着いて眺めることができるのではないか。酷な話だが、逆さ画像はある種の「踏み絵」になってしまうのだ。写真が認識の対象の再現であると信じ込んでいるひとは、逆さ画像に耐えられず、上下を重力方向と一致させようと画策する。ひっくり返すのは紙であれば簡単だ。モニタをひっくり返す猛者すらいることがわかった。しかしテクノ画像の本質を知っているひとは、少しも動揺せずにあるがままを受け止めることができるのだろう。大嶋浩は1月27日付けのDのための、未来のための、いくつかの断片において、「もはやわれわれは、イメージを見るのではなく、聞いているのだ」と言っている。この場合の見ることは再現されるかもしれない現実との比較を含んだ見る、であり、聞く、とは環境が提供しイメージとして記録された視覚情報をただ摂取するだけの見る、であるのではないか。イデオロギーやコマーシャリズムなど、放っておけばすぐにでもイメージにまとわりついてくるあらゆる付加的な目的性からイメージの独立を維持するために、今われわれはイメージを見るのではなく、聞かなければならない。しかも誠実に。


[2003. 02. 03]  Air #103 をアップロード。
2月の光は美しい。しかし「テクノ画像」を操るわれわれは、その美しさにひれ伏すことだけで仕事を成立させるわけにもいかないだろう。記憶を集積させていくのではなく、ただひたすらに先へ進むこと。ただただ突き進むこと。画像はその突進が時間の流れと触れ合って発火した「燃えかす」に過ぎない。発火を見続けるには、進み続けるしかないのだろう。


[2003. 02. 02]  とあるメールへの返事。
ご興味を持っていただいたこと、うれしく思います●しかし、あなたのいささか性急な「理由」へのこだわりに対しては、残念ながらあなたが望まれているような「明確な解答」を差し上げることはできないでしょう。●すでにわたしのサイト中の制作ノートに当たる部分で触れていますが、長い時間をかけて展開した結果として立ち至った事態について、現時点での現象に基づいて簡単な説明で済ませてしまうことは大きな誤解を招くことが予想されます。われわれはすでに「こういう理由である」→「ああ、なるほど」という表層的な因果関係の段階を通り過ぎてしまっています。あなたがものごとにはすべて理由があるはずだ、と思われるているのであれば、この先は話が通じないかもしれません。そうでないことを願って話を続けます。●もっと大きな枠組みからお話をさせてもらえば、「逆さ」は何かへの回答、つまりあなたの期待するような何らかの効果への意図として、機能しているわけではないのだと考えています。重要なのは回答を得ることではなく、むしろ問題を考えることです。それが解けない問題なら最高です。イメージにおける上下はなぜ重力の上下と一致しているのか、という問題であってもいいし、なぜ現代のイメージは近代の3次元の物理空間の認識に従属して成立しているのか、という問題の立て方であってもいいと思います。他にも言い方は無限にあるでしょう。大事なのは問題提起のオリジナリティです。●さらにあなたはこう言うかもしれない「なぜ問題を立てなければいけないのか」。それは自分で考えてください。●これは突っぱねているわけでもはぐらかしているわけでもありません。わたしの立てた問題をあなたを含む多くのひとたちに一緒に考えてもらいたいのです。今のイメージのありように疑いを持つこと。それなしには新しい表現はありえません。既存のスタイル、制度の中で評価をもらうことがアーティストの仕事ではないと思っています。


[2003. 02. 01]  Air #102 をアップロード。

[2003. 01. 31]  Air #101 をアップロード。
なぜ逆さなのか、というストレートな疑問が飛んできた。そろそろ来るのではないかと、思ってはいた。長い時間をかけて展開した結果として立ち至った事態について、簡単に話をするのは難しい。ただ手短かに言えるのは、「逆さ」は何かへの回答(言い方を変えれば、何らかの効果への意図)として機能してはいない、という点だ。むしろ「逆さ」は問題を提起している。なぜ上が上で、下が下なのか。実を言うとそれは新しい問題でもない。画像(とりわけ写真画像)を紙やフィルム以外の装置に展開させた途端に、これまで隠ぺいされいた問題がたまたま浮上してきた、と考えてもいいのではないか。近い将来、もし電子装置が紙並みのポータビリティを持ちえれば、この問題は再び棚上げになるようにも思われる。今言えることは、問題を考えることに参加してほしい、ということだ。最後に蛇足ながら先人の言葉を借りてくると、「『理解できない』とは、さっさとレッテルを貼って『消費してしまえない』ということ、だから理解不可能であることは本質的なのである」(Gerhard Richter)


[2003. 01. 30]  Air #100 をアップロード。
中途をはしょった強引なロジックの展開ではあるのだが、とにもかくにも人間は光と空気から空間を知覚しているということ。さらにはデカルト由来のマトリクス的な空間概念が現れたのも、結局は光と空気があったため、と言い切ってしまおう。Gibsonの生態学的視覚論の読解としてジャストミートはしていないものの、かなり近い線をかすっているのではないかと確信している。はじめに3次元空間マトリクスなんかがあったのでは断じてなく、空間概念はあくまで便宜的な仮の装置、知覚の解釈のための単なるツールにすぎないということだ。もっと言うと、われわれは「空間の中にいるという幻想」の下に生きているということだ。そして写真というシステムは、空間の幻想性を実証する仕事を負ってもよいのだ。3次元空間マトリクス的空間概念をいっそう強化するかのような、傲慢なそぶりのドイツ系の現代写真は、もういらない。現代が近代の末席であるのであればそれでもいい。でもそれは時代に即した本来的な意味の現代(ゲーゲンヴァルト)ではないだろう。さようなら3次元空間マトリクス。


[2003. 01. 28]  Air #099 をアップロード。
なんだか体力が確実に落ちてきている。しかしいつまでも寝ているわけにもいかないので無理やり仕事に復帰。その「光そのものは見ることができない」ということ。これは少し冷静に考えてみると大して無茶な話でもない。われわれは基本的に光が何かにぶつかる状態、を見ている。反射も散乱も、基本はぶつかることだ。もし光が何にもぶつかることなく、目の前を素通りしたとしたら、われわれは光を知覚することはない。この段階では何となくそんなものか、という気になる。しかし光源を見れば光そのものが見えるではないか、というツッコミに対してGibsonは、それは光エネルギーが目という受容器に刺激を与えた経験が、視覚と誤って結びついたものであって、光そのものが見えるということとは区別する必要があると言ってのける。この言葉に行って帰って来たとき、初めて真の驚きが立ち現れるのかもしれない。光源を見ることなしに、目の前を光が走っている状態を考える。その目の前の光は、何かにぶつかるまでは、決して見えないのだ!!!しかしこれは何もない、まさに空(くう)の中での話、文字通り空論に近いものだ。われわれの生きている生活領域には空気がある。空気があるというのは、実は生物学的な問題の範疇に収まりきらない(つい、そう考えがちである)。空気があるということは、光がぶつかるもの(空気の分子)がある、ということだ。つまり空気があってはじめてわれわれは「空中が見える」ようになる。空中が見えたことによって人間は、「空間」という概念をでっち上げることになる。Gibsonはこのような論法で彼の最大かつ最強にラジカルなテーゼ「空間は神話であり、幻影であってまた幾何学者のための作り事である」にわれわれを導くわけではない。しかし空気をキーワードにして噛み砕いていくと、こういう乱暴な解釈も許されるのではないかと思えてくる。


[2003. 01. 26]  金曜までの卒業制作最終審査でカゼが激烈に悪化。まる二日間、寝ている。発熱により混濁した頭で、空気のことを考えている。19日にいい加減なことを書いたので、空気が視覚に及ぼす影響をもう一度、生態学的視覚論から読み直すことにした。Gibsonは放射光と包囲光を厳格に分けている。まず太陽や電球のように自ら発光する発光体の光の状態が放射である。放射光は空気があろうがなかろうが、光源の方向を向いてさえいれば知覚される。非発光体が知覚されるとき、非発光体は照明されている。この照明という状態を作り出すのに、空気が関与する。空気による散乱と地表面における散乱反射(ごく一部は鏡映反射)の無限の繰り返しによって、光はある種の定常状態に達する。この状態では光は空中のどの点にも到達し、どの点をも取り囲むことになる。これが包囲光である。包囲光がなければわれわれの視覚はスペースシャトルの船外活動における写真のようになるのだろう。つまり光がまったく回り込まず、陰が真っ暗な、あの状態である。空気のない月面では、おそらく深い穴とちょっとした窪みの区別がつけられないのではないか。今、放射光が知覚できると書いたがこれは実のところ正しくない。正しくは、「光そのものは見ることができない」のだ。こんなちょっと驚くべき言説をGibsonは提示している。また熱が出てきた。続きはまた後日。


[2003. 01. 21]  Air #098 をアップロード。
いわゆるまともな画像、から離脱することは、まともな画像という暗黙の制度を照射する。「媒質」に対する気づきは、「対象」という画像生成における暗黙の目的を照射する。水平垂直上下の放棄は、画像生成における古典以来の作法を照射する。そんなアプローチはデジタル以前からあったよ、という声が聞こえそうだ。しかし、デジタル由来の過剰な反復性を、決して甘く見るべきではない。短いループで繰り返される単純さの波は、構造中の予想もしなかった部分と共振し、構造体の破壊をもたらすことがある。構造の美しい使い方や、構造中でいかに上手にふるまうか、というレベルの行為には興味がない。構造の破壊と組み替え可能性にコミットできること、それだけが今、楽しみだ。


[2003. 01. 19]  空気は透明で流動的だが弾力性もあり、粘性もかなり高く、触ったり食べることすらできる。地球上の動物の空間認識に関してかなり支配的な役割を担っている。われわれがものを見るときはものを直接見ているのではなく、ものから反射(あるいは放射)した光が空気を色づけるのを見ている(そうでなければ視覚のにじみは起き得ない)。たとえば生態学的視覚論の中でJ.J. Gibsonはそうは書いていなかったが、わたしはそう考えている。
展示用のイメージを選択している。およそ1万5千枚(枚という単位はもはや、変だ)のイメージから、30から50枚ぐらいまで絞り込む。ギャラリーで展示をする意味がもしあるとすれば、この選択作業によってイメージ間の連鎖の強度、文脈の純度を上げることができるという点だけだろう。設定したテーマに沿わせる、というトップダウン型の圧力をかけて、イメージ群の再編作業を行うということ。あるいは醸造酒を蒸留してスピリッツを作るようなものかもしれない。いずれにせよ行為のベクトルは古典的な方を向いていて、後ろ向き感覚のやるせなさにおそわれることになる。展示会場にマシンを持ち込んでスライドショウにすれば逃げられるのかもしれない。しかしそれではわたしの場合、1995年の初個展まで逆戻りすることになってしまうから、やらない。
削る部分の方が過剰に多い場合、削れてなくなったものが逆にはっきり見えてしまうことになる。少なくとも作者本人にとっては。自分から外に出してやったものだけが公式に存在したものになる。まあそれはどうでもいい。削ることがイヤだとか辛いとか言っているわけではない(もちろん肉体的には辛いが)。今たぶん気になっている問題は、Webは収穫加速装置つきワイナリーであり、ギャラリーはブランデーを出すバーであるという現在のデジタル写真表現の生成環境の認識だろう。本当にそれでいいのだろうか。それでしかあり得ないのだろうか。


[2003. 01. 17]  Air #097 をアップロード。

[2003. 01. 15]  Air #096 をアップロード。

[2003. 01. 14]  Air #095 をアップロード。
忘れたころに繰り返し、明け方の夢に出てくる入り江。絶妙な高みから眺めたその水の絶妙な透明さ(それはそれはとてつもない緑色なのだ)と、周囲の霧の絶妙な流れ具合。だがなぜかいつも、カメラを持っていないのだ。そういえば、夢の中ではいつもわたしはカメラを持っていない。でもそれはとっても正しい。ある意味では。


[2003. 01. 12]  Air #094 をアップロード。
一般に物を見るとき、われわれは空気を通してそれを見ている。宇宙空間や海中であっても、眼球は直接、真空や海水にさらされることはない。視覚に空気が必要なのは、生体の物理的な構造によって定められている基本的なフォーメーションということだ。しかし物を見るとき、われわれは空気をないものとして考えている。絵画において例外的に空気遠近法というメソッドがあるが、原則的に人間はクリアな視界を得るために空気の存在を滅却しようという方へ、工夫や努力を惜しまないで生きてきたと言ってもいいだろう。


[2003. 01. 11]  3月の個展のタイトル、Driving Air(ドライヴィング・エア)に本決定する。ところでAirとはいったい何なのか、をそろそろ語らなければならない。今までだらだらと先延ばしにしてきた。もちろんAirとはそのまんま、空気のことだ。あるけどないことにしている空気。天気が良ければ澄んで、雨が降れば濁る、空気。なぜその空気に着目しなければならないのか。これから少しずつ考えてみることにする。


[2003. 01. 10]  Air #093 をアップロード。

[2003. 01. 08]  Air #092 をアップロード。

[2003. 01. 07]  Air #091 をアップロード。

[2003. 01. 04]  Air #090 をアップロード。