"aperitif" (2002) archive 文章とデータはすべて発表当時のままになってます。事実誤認やリンク切れなどはご容赦ください |
[2002. 12. 30] Air #089 をアップロード。
[2002. 12. 28] Air #088 をアップロード。 [2002. 12. 25] Air #087 をアップロード。 [2002. 12. 22] Air #086 をアップロード。 多数のご来場感謝!「D」 [2002. 12. 18] Air #085 をアップロード。 [2002. 12. 17] Air #084 をアップロード。 [2002. 12. 15] Air #083 をアップロード。 [2002. 12. 14] Air #082 をアップロード。 [2002. 12. 13] Air #081 をアップロード。 [2002. 12. 11] Air #080 をアップロード。 [2002. 12. 10] Air #079 をアップロード。 [2002. 12. 09] Air #078 をアップロード。 [2002. 12. 07] Air #077 をアップロード。 [2002. 12. 05] Air #076 をアップロード。 公開開始! 佐藤淳一インタビュー by 三宅章代 [2002. 12. 04] Air #075 をアップロード。 ハードなインタビュー。ロックと生態光学(Ecological Optics)の関係・・・言ってることがムチャクチャなんで、読むのはちょっとキツいかもしれない。三宅章代がなんとかまとめてくれた。Thank you ミヤケ! [2002. 12. 03] Air #074 をアップロード。 [2002. 12. 02] Air #073 をアップロード。 [2002. 11. 29] Air #072 をアップロード。 [2002. 11. 26] Air #071 をアップロード。 [2002. 11. 24] Air #070 をアップロード。 [2002. 11. 23] Air #069 をアップロード。 [2002. 11. 21] Air #068 をアップロード。 【続き】「無限に流れる情報の知覚の流れを恣意的にすくい取ったもの」としてのイメージは、依代(よりしろ=メディア)を問わない。いや、むしろ依代の存在をより希薄にさせ、空中に浮遊することを指向するかのように見える。小林のりおの言を借りれば、「消える写真」あるいは「写真は不定形」というニュアンスがこれに近いものかもしれない。 [2002. 11. 20] Air #067 をアップロード。 「情報」という言葉をむやみに多用するのはあまり好きではないのけど、どうも情報という概念がないと視知覚のふるまいをうまく納得することができない。写真のような静止画像というのは、無限に流れる情報の知覚の流れを恣意的にすくい取ったものに過ぎない。その中にデカルト的三次元空間を再構築するのは、絵画に由来するかなり限定された静止画像の利用行為になるのだという。たとえばブレたりボケたりすることを撮影者の主観の現れと見るようなモダニズム美学は、もはや賞味期限が切れちゃってるってこと。いつまでもひからびた美学ばかり食べてると、今にお腹こわすよ。 [2002. 11. 19] Air #066 をアップロード。 何かを指し示すように写って何が面白い。空間の再構築をして何が面白い。もとより主観も客観も何もないのだ。そんな二元論は幻想に過ぎない。あるのはただ何かが写ってしまう、という事実だけだ。何かが写ってしまう、つまり何かの存在が情報としての痕跡を残すこと。そのほとんど奇跡とも思われる現象に参画することが許されていることだけでも幸せなことだ。そこに意図が介入する余地は全く無いんだ。美しい構図だの決定的瞬間だのといった、人間の小賢しい意図などはくだらない余計な横槍だ。シャッターを押す行為など脊髄反射で十分。写ってしまう、という現象そのものに敬意を持って接すること。もう完全にそれだけだ。 [2002. 11. 18] Air #065 をアップロード。 人にものを教えることは悲劇であり喜劇でもある。不まじめであることの誠意というものが存在できないような場なら、ない方がマシってもんだな。 [2002. 11. 16] Air #064 をアップロード。 冬の蛍光灯だか水銀灯だか、ギラギラした街灯に照らされる植え込みのみどり色の、その毒々しいプラスチックじみた光が今ここにあるリアリティ。膨大な記憶の中の裸電球→横丁に逃げない本当の原理主義は目が前に付いているんだきっと。 [2002. 11. 15] Air #063 をアップロード。 痛み止めやらカゼ薬やらとっかえひっかえ交互に飲んでいる。そのせいか頭がちゃんと回らなくなってるようだ。 [2002. 11. 14] Air #062 をアップロード。 冬の夜は実験にこそふさわしいのではないか。実験のない人生はつまらない。 [2002. 11. 13] Air #061 をアップロード。 10日前から痛かった肋骨、実は折れていた(笑)。何かを壊したかったら、まず自分から壊れろ、ってことなのか。久々のレントゲン写真はやっぱり素敵。デジタルレントゲンだったらもっと素敵だと思う。 [2002. 11. 12] Air #060 をアップロード。 [2002. 11. 10] Air #059 をアップロード。 合言葉は「D」。 Adieu Photograph - D [2002. 11. 8] Air #058 をアップロード。 Adieu Photograph - D がいよいよ本格的に始動。戦闘開始だ。合言葉は「D」。壊すのではなく、自ら壊れることからスタートする。 [2002. 11. 7] Air #057 をアップロード。 Adieu Photograph - D がいよいよ本格的に始動。戦闘開始だ。合言葉は、「D」。 [2002. 10. 30] 最後に現実空間のギャラリーで個展をやってから、来年の3月でまる5年もたつことに気がついた。ギャラリー展示をやらなくなったのは、活動の主軸をWebに置いていたためということもあるのだが、ぜひここでなら展示をやってみたい、と思わせる空間に出会わなかったという理由も大きい。先日、前々から気になっていたのにもかかわらず、これまで行く機会を逸していたギャラリーを訪ね、その場で借りることにしてしまった。そのギャラリーは、隅田川に面した建物の4階にあって、窓からは川面がすぐ目の下に広がっている。しゃがむと床の延長上に水面がつながって見えるような、とても面白い空間だった。どうもわたしは多少クセのある空間でないと積極的に展示をする気にならないようだ。窓がなくて6面真っ白、現代美術御用達な空間なんかは、見るのは好きだが自分の作品を展示しようという気分にはならない。 5年ぶりのギャラリー展示による個展は来年3月。詳細はINFOを見てほしい。 [2002. 10. 28] Air #056 をアップロード。 空を撮って歩いていると、すれ違う人がつられて空を見上げることがよくある。そして不思議そうな顔をする。見るべきものなど何もない、という判断こそがむしろ正しいのだろう。何もないところに何かを見てしまう狂人であり続けたい。 [2002. 10. 25] Air #055 をアップロード。 画面上では成立していたはずのイメージが、紙の上にプリントされると変質して別のものになってしまう。壊さなければならないものは、まだまだたくさんあるらしい。自分の中の強固な価値基準がもっとも手ごわい。 [2002. 10. 19] Air #054 をアップロード。 ブレた写真はなぜ、失敗と見なされるのか。われわれは世界が「動く」のを大量の静止画像の滑らかな連続送りと認識しているため、一枚の静止画像の中に移動の軌跡が痕跡として残されるのを、どちらかというと嫌う傾向があるからなのではないか。人間の視覚画像だってブレている(目の前を移動する自転車を追う眼を、自転車を追うのを止めないまま背景に逸らしてみてほしい。ちゃんとブレてるでしょ?)のに、それは見ないことにされているのだ。注目しているポイント以外は見えないようにする。「正常を指向する意識」がそういう情報操作をやってのけている。 Web個展もそろそろ終わり。看板を引っ込めることにしよう。 [2002. 10. 16] Air #053 をアップロード。 上下をひっくり返して見ると、海というものはかなり変なものだ。このおかしさは言葉では言い得ない。 [2002. 10. 11] Air #052 をアップロード。 疲労の極にあっても、晴れているとついつい撮影をしてしまう。青空はドリンク剤より効く。 [2002. 10. 10] Air #051 をアップロード。 空に落ちたい。空に落ちたい。空に落ちたい。 [2002. 10. 07] Air #050 をアップロード。 こんな雲の出る日は、雲に落ちてみたいと思う。飛行機から雲にダイブするのではなくて、今いる地面から天に「落ちる」のだ。上下逆さの感覚は、突然出てきたのではなく、子供の頃からしばしば感じていたことをメソッドとして固定しただけにすぎないことに気づく。どう考えても単なる思いつきレベルを越えていると思っている。 [2002. 10. 04] Air #049 をアップロード。 上が上で下が下。誰かが決めて、誰もが正しいと思って疑うことのなかった「制度」。レンズを通した映像、つまり現実の投影はもともと上下が逆だったのだから、逆の方が自然だ、ということになっていた可能性もあったのに、そうならなかっただけの話。別に奇をてらっているわけでもなく、身の回りから感覚の拡張を試しているだけなんだなきっと。同じ絵の具を使いながらも、従来考えられていた現実の複製でない、ブッ飛んだ絵を描き始めた連中や、すでに作られてあるものを美術作品として美術館に持ち込んだ奴。今でこそリスペクトされているがその当時はきっとバカだと思われていたに違いない(笑)。上下逆さのイメージも今のうちに、思う存分バカにしておいてほしい。 [2002. 10. 02] Air #048 をアップロード。 広田、中山に続いて、古家佑実と渕上繭子がそれぞれ個人サイトを立ち上げた。どこまで走れるか楽しみ。現在の写真界がどうあろうと、Web写真のムーブメントは着実に拡大している。従来あった「何か」に取り付き、シロアリのようにそれを侵食しているのか、それとも新大陸の開拓のようなものなのか。まあそんなことはどっちでもいいのだけど。でもどう考えても写真的リアリティって、すでにこっち側に乗り移ってるんじゃないの? [2002. 10. 01] Air #047 をアップロード。 明晰な画像なんていらない。色彩感だけで生きていける。などと思ってしまう秋雨の日。気圧計の針が普段ではあり得ない位置まで下がっている。台風が接近しているのだ。 [2002. 09. 23] 7月のゼミ展以降、広田早智子と中山京子がそれぞれ個人サイトを立ち上げて、更新の日々を送るようになった。広田の作り出すイメージは犬の目から見た世界(文学的な意味ではなく、本当に犬の視線で撮られている)で、中山のイメージはさまざまなスタイルが混在しており、世界を切り取るメソッドを模索している最中であることが見て取れる。自己と向き合いながら、自閉的にならないWeb空間の中で、ふたりの今後の展開を見守っていきたい。 [2002. 09. 20] アメリカ東部標準時間で20日から、「Air Unusual」が無事オープンした。オープニング・パーティも何もない、地味なWeb個展。しかし変化は少しずつ、着実に訪れている。世界の新しい見え方と、世界の新しい使い方。既存の枠組みの中の古びた価値に、もはや用はない。 オープン早々、さっそく見に行ってくださったみなさんと、バーチャルで乾杯! ●佐藤淳一Web個展「Air Unusual」 GalleryArtist.com にて10/19まで開催中。 【会期中の更新や追加はありません。曜日によって展示されるファイルが変わります】 [2002. 09. 18] 午前3時過ぎ。「Air Unusual」のファイルがようやく完成。30MB弱を8つのファイルに分割してたった今、メールでニューヨークへ送った。この一連の作業に費やされたエネルギーは、一体どこへ行くのだろうか、などと考えてしまう。 オープニング・パーティも何もない、地味なWeb個展がもうすぐ始まる。日本時間だと実質、21日あたりからオープンということになると思う。曜日によって展示内容が変わる構成になっている。 [2002. 09. 11] Air #46をアップした。 1年前、すでにアップしていたDaysのその日のデータを、思わず日付をフレームいっぱいにしたものに差し替えたことを思い出す。1年、というくくりはとても便利な文明の発明品だ。365日、日を遡る手間をかけることなく、1年というステップで瞬時に記憶にアクセスできる。年、10年、世紀・・・というくくりで、大量の記憶はどんどん集約されていく。数十年や数百年、自分の存在が記録されて残ったとて、何の意味もないことだ。すべては圧倒的な時間の波濤の中に埋もれ、消え去るだけのこと。 以下、Web個展のお知らせ。 Air Unusual SATO JUN ICHI photographs GalleryArtist.com Sep 20 - Oct 19 2002 (EDT = UTC - 4h) [2002. 09. 06] ヘルシンキからコペンハーゲンを経て、雨の東京へ帰ってきた。 急な話だが、NYのGalleryArtist.comでのひさびさのWeb個展が決定。9月20日から1か月間の予定。詳細は数日中にお知らせできると思う。 [2002. 08. 30] オスロ、ストックホルムを経てヘルシンキに来ている。どんどん秋が深くなる感じ。 I'm in Helsinki now. [2002. 08. 24] 本日、オスロからストックホルムへ移動。もう秋だ。毎日とはいかないが、Daysは続けて旅先アップロードをしている。たまに見てもらえるとうれしい。 I'm in Stockholm now. [2002. 08. 20] Air No.45 ちょっと家出。しばらく帰らない。Airはそのままにしとく。 I'm absent from Tokyo. [2002. 08. 16] Air No.45 いろいろなものが空中に浮いている。かなり、可笑しい。 [2002. 08. 14] Air No.44 坦々と、イメージそのものへ。 [2002. 08. 13] Air No.43 蝉の声の変化で、夏のピークの過ぎたのを知る。 [2002. 08. 11] Air No.42 [2002. 08. 10] Air No.41 [2002. 08. 08] Air No.40 空が青いというのは、理由はどうあれ、やはり不思議だと思う。 [2002. 08. 08] Air No.39 CCDが終わって数日たって、また淡々坦々。どこへ行けるのかも定かでない、空気を追う日々。 [2002. 08. 07] Air No.37 CCD-unit Collaboration 終了。ありがとうございました。また来年の夏。 [2002. 08. 06] Air No.36 CCD-unit Collaboration 終了。ありがとうございました。 [2002. 08. 02] CCD-unit Collaboration 加速中! 休止中だったアメリカのオンラインギャラリー、GalleryArtist.comが復活。 → http://galleryartist.com/ [2002. 08. 01] CCD-unit Collaboration スタート! [2002. 07. 31] 「Air」第35回。 視覚認識の言語による分節作用からの逃走のために。安定した理性的な構図と、静止と結像にはしばしの別れを告げよう。 CCDはいよいよ今晩(8月1日午前0時)スタート! [2002. 07. 29] 「Air」第34回。 視覚認識の言語による分節作用からの逃走のために。安定した理性的な構図と、静止と結像にはしばしの別れを告げよう。 [2002. 07. 27] 「Air」第33回。 ゼミ展に続いてCCD。今年は5日間の短期決戦。8月1日から。 → http://CCD-unit.com/ [2002. 07. 27] 「Air」第32回。 夏のゼミ展(Web展)が終了。最後にじっくりと付き合うつもりでいたら、何とプロバイダがトラブって接続ができなくなった。最初は家のルータが壊れたと思い、いろいろいじくっていたら日が変わってしまった。急遽PHSからつないで展示の終了を見届ける。ついでに某掲示板に寄ったらプロバイダ側のダウンであることが判明。一気に脱力した。この1週間、Webで突っ走れーなどと吠えてきたが、考えてみればわれわれが安心しきってデータを流通させているこの回路は、結構、脆弱なものなのだ。それを忘れてはならない。だからといって、メディアの歴史を逆回転させることはもちろんできない。立っている地盤が脆弱であろうが何だろうが、とにかく今のわれわれは走り続けねばならないのである。 [2002. 07. 25] 「Air」第31回。 夏のゼミ展(Web展)6日目。もはや残りあと1日だ。美術はいつの時代でも、技術の先端と結びついていた。つまり純粋な美術の活動の中には、必ずその時代の時代性が内容、手法ともに畳み込まれているのだ。しかし残念ながら価値判断はいつも遅れてやってくる。新規な仕掛だけが売り物だの深みがないだの軽薄だのというネガティブな評価は、時代というものに真正面から向き合う作品に投げ掛けられる常套句なのだ。すでに、われわれれの暮らしている情報環境は変わってしまったのだ。従来の枠組みは一旦、壊さなければならない。従来の物差しも、一度たたき折らねばならない。家元制度的評価システムに安住する作家などクソ食らえだ。大学のシステムだって、硬直化してればもちろん壊す。新しい技術、新しい環境で何が言えるのか、徹底的な実証こそが今、もっとも重要な仕事だ。突っ走れ! [2002. 07. 24] 「Air」第30回。 夏のゼミ展(Web展)5日目。残すところ2日。WebでWebならではの作品を作って継続的に見せていく、という表現活動。その方法論についてもっと意識的であること。さらにはその面白さをもっと広めること。どちらも、もはやわたしの世代が中心となって行うということは考えられない。今、10代、20代の連中がこれから荒野を開拓していくのである。わたしたちの世代の今なすべき仕事は、価値の確定しきった表現旧世界の中で微小な差異の中に住みつくことでも、既存形式の中を言葉巧みに泳ぎ回って金看板を掲げることでもない。旧世界の中でまだ使える概念を荒野の方へ持ち出し、移植することが必要なのだ。移植した木々はやがて繁茂して木陰を作り、地下水を涵養し、荒野に拓かれた新たな表現の田畑を守ることになるのだろう。ゼミ展の様子を見ていると、そのための橋渡しをすることにはたしかに意味があるなあと思えてくる。伝統とか文化の継承とかいうものは、ずっと同じ価値観にしがみつくことではなく、こういう断続的な飛躍を伴ってはじめて達成されるのだ。 [2002. 07. 23] 「Air」第29回。 夏のゼミ展(Web展)4日目。もう後半戦だ。連絡用のメーリングリストではいまだにいろんな悲鳴が聞こえて来るのだが(Macで見れないだのWinでは動かないだの)、よっぽどの重症を除いて基本的に放っておくことにしている。自分で悩みながらタグやらスクリプトやらと格闘する日々を経て、この新しいおもちゃを自由に乗りこなすようになっていくはずなのだ。既存の価値基準やら表現のカテゴリーやら、そういうウザったい古い構造からするりと逃げて、今まさに自分がつかまえたばかりの、とびきり生きのいいデータを思う存分投げつけてくる様子は気持ちがいい。やはり夏はこうでなければ。 [2002. 07. 22] 「Air」第28回。 夏のゼミ展(Web展)3日目。なかなかすべての作品を隅から隅まで見る(たどる)ことができないでいる。まだ残り日数があるから、終わるまでに何とかすればいいかとも思っている。ちょっと火をつけたのがぼわっと燃え上がっていたりして、面白い。それにしてもほぼ全員が自分専用のBBSを設置してて、それがすべてコミュニケーション回路として機能しているのはちょっと見事だ。まあ「感想を書いてね」ノートが個別に、それぞれの展示の傍らに置いてある、というのは卒制展なんかでもおなじみの光景であって、別に不思議でも何でもないのかもしれない。集団で行動していても自分の場所はきっちり確保、という世代特有の空間意識が現れているだけのことなのである。楽しくお花畑を作っているのをとやかく言うつもりはない。しかしBBSの内容を覗き見していると、それぞれが今後、孤独な表現の現場に旅立って行くことができるかどうか、ちょっと心配になってしまった。 [2002. 07. 21] 「Air」第27回。 夏のゼミ展(Web展)開催中。学生はさまざまな態度、温度でそれぞれお店、いや展示ブースを開いている。誠意を持って日に何度も更新をするやつもいれば、何を言いたいのか、自分でもよくわかってないやつもいる。さらには差し出された手を思いっきりかじるようなことをしているやつも、いる。そういう年頃、と言ってしまえば簡単過ぎるのかもしれないが、この場合やはりそう言うしかないのだろうと思っている。誠意に対して必ずしも誠意が返ってくるとは限らないし、人の手を噛んで褒められる犬も、世の中にいないわけではない。人を喜ばせることができるやつは、喜ばせればいい。人を怒らせるやつは、平手打ちをくらうことを覚悟の上で、怒らせればいい。表現者が逃げも隠れもしない限り、表現は限りなく自由なのだ。 [2002. 07. 20] 「Air」第26回。 日本カメラ8月号に、谷口雅氏がAirについて書いている。氏の推測に反して、Airは案外長く続くかもしれない。この「かもしれない」がまさにWeb的たる所以なのかもしれない。 夏のゼミ展(Web展)開催中。ゼミ展に関していろいろな反応を直接、間接にもらっている。なかでもこのスタイルになじみのない方面からは、否定的な声も聞こえてきたりして、学生達がショック(笑)を受けていたりしているようだ。そういう反応をする人たちに対しては、Web exhibitionというイベントは、完成したデータを見てもらうものではないんだよ、と言っておきたい。完成に至るプロセス、あるいは完成という段階を最終目標としない、いわば「経過そのもの」を見てもらう、のがWeb展だ。おそらく展覧会という名称はふさわしくないのだろう。むしろアトリエ公開とか、公開制作とか言ってしまえば、あらぬ誤解が起きにくかろうという気もしている。 [2002. 07. 19] 「AIR」第25回。 夏のゼミ展(Web展)スタート。今年は3年+4年のダブル展覧会。 われわれはWebで動的に表現する。Webを単なる商売道具と考えたり、仲良しクラブとして使うことしか知らない世の中の反動保守な連中は、間抜けなウイルスでもくらって寝てなさい。われわれは勝手に、進み続けるだろう。 [2002. 07. 18] 「AIR」第24回。 歯が痛い。歯が痛いだけでいろんな部分の調子が狂ってしまう。そういやあクーラー浸けで喉も痛い。もうボロボロ。 夏のゼミ展(Web展)スタートまであと1日。今年は3年+4年のダブル展覧会。Webを単なる商売道具と考えたり、仲良しクラブとして使うことしか知らない世の中の反動保守な連中は、間抜けなウイルスでもくらって寝てなさい。→ http://dipale.musabi.ac.jp/s/s-jsato/ [2002. 07. 16] 「AIR」第23回。 サーバがいっぱいになってしまうので、古い回のデータを消しはじめている。最新の1回分だけを残して、後はそのつど捨ててしまうのが本当だろう、とは思っている。サービス精神がアダとなって・・・よくある話だ。 [2002. 07. 15] 「AIR」第22回。 (2002 / 07 / 14) 「AIR」第21回。 誕生日、第39回。 信じられない。あと1年で40年も生きていることになる。こうなったら覚悟を決めて、プレミアムおやじでいこう。 (2002 / 07 / 12) 「AIR」第20回。 体の周囲にまとわりつく、空気の層。それに比べて成層圏の外では、何とまあ、ものがはっきり見えることか。 (2002 / 07 / 11) 「AIR」19回目。 今日は昨日で昨日は一昨日。時間があいまいな方が自然なのだ。 (2002 / 07 / 09) 「AIR」18回目。 ひさびさに旅先から更新。巨大な空気の渦が近づいてくるのが感じられる。 (2002 / 07 / 08) 「AIR」17回目。 空気は、光にとっては邪魔な存在なのかもしれない。 WCP G5スタート。6日間の戦いの後に何が結晶するのだろう。 → http://nmrt.jpn.org/wcp/ (2002 / 07 / 07) 「AIR」16回目。 森の中を歩きながら考えた。 視座が静止していることが理性的、客観的な画像を形成する、という思い込みもまた、相対化されなければいけない。ブレのない画像をよしとする価値観は、ひとつの制度の中で要請されているスタイルにすぎない。ブレのない画像を作りだすために込められた意図の総量は、脊髄反射的に得られたブレ画像におけるそれよりはるかに多い。主観的、意図的な写真とはいったいどっちを指しているのか、もういちど考えてみる必要がある。 (2002 / 07 / 05) 「AIR」15回目。 14年前の夏に1か月だけ住んだ家がいったいどこだったのか、見つからない。 (2002 / 07 / 04) 「AIR」14回目。 空気の密度がどんどん増していく。 (2002 / 07 / 02) 「AIR」13回目。 晴れの日よりも雨の日の方が、ものの表面に色が現れる。空気の重さを感じることができるし、空気の匂いも濃厚だ。雨が止んで、そのことにはじめて気がついた。 三宅章代さんのページに、小林のりおさんのインタビューが公開されていた。ツボを押さえた上出来なインタビューだと思う。→ http://www.ne.jp/asahi/yuuhi/about1380/interview.html (2002 / 07 / 01) 「AIR」12回目。 イシモ ヌレテイル ソラモ ユビノサキモ ヌレテイル ドウシヨウモナク イタシカタナク ヌレテユク イマ カナシイトモ オモワナイ タダ ミョウナ 深ミ エジプトノ ピラミッドノ アノ中ノ石棺ノ ワビシサガ ナントモ ジブンノ モノノヨウダ 中屋幸吉「最後のノート」より (2002 / 06 / 29) 新シリーズ「AIR」、11回目。 暗い森の中の道。高湿度で濃密になった空気を吸い込みながら歩く。 (2002 / 06 / 28) 新シリーズ「AIR」、10回目。 空気の海。その底であっちに行ったりこっちに行ったりしてうごめく、わたしたち。 (2002 / 06 / 26) 新シリーズ「AIR」、9回目。 空気があることによって、ものはかなり濁って見えているのだ。 (2002 / 06 / 25) 新シリーズ「AIR」、8回目。 空気、空気、空気。 (2002 / 06 / 24) 新シリーズ「AIR」、7回目。 澱んだ古代の空気のことを想う。 (2002 / 06 / 23) 新シリーズ「AIR」、6回目。 歩きながら空気のことを考える。 口から吸い込み肺で味わい、吐きだす。その空気をまた別の人が吸い込む。かなり不気味だ。 (2002 / 06 / 22) 新シリーズ「AIR」、5回目。 夜の団地。 亡霊のような姿でたちあおいが空気の中で揺れている。 (2002 / 06 / 21) 新シリーズ「AIR」、4回目。 へりの音。 空気の振動が鼓膜で破砕する。 (2002 / 06 / 20) 新シリーズ「AIR」、3回目。 雨の降りはじめには、いつも不思議な感覚が伴う。ものすごい高いところから水滴が突然、落ちてくるのだ。雨とはなんとまあ乱暴な現象であることか。やさしい雨、静かな雨、というのはウソで、すべての雨は暴力的だと思う。 もうほんとうに、どうしようもなく、われわれは空気の中で暮らしているのだ。 (2002 / 06 / 19) 新シリーズ「AIR」、2回目。 小杉武久のインスタレーションを見に行った。 |