"aperitif" (2002) archive
文章とデータはすべて発表当時のままになってます。事実誤認やリンク切れなどはご容赦ください
[2002. 12. 30]  Air #089 をアップロード。

[2002. 12. 28]  Air #088 をアップロード。

[2002. 12. 25]  Air #087 をアップロード。

[2002. 12. 22]  Air #086 をアップロード。
多数のご来場感謝!「D」


[2002. 12. 18]  Air #085 をアップロード。

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[2002. 12. 05]  Air #076 をアップロード。
公開開始!  佐藤淳一インタビュー by 三宅章代


[2002. 12. 04]  Air #075 をアップロード。
ハードなインタビュー。ロックと生態光学(Ecological Optics)の関係・・・言ってることがムチャクチャなんで、読むのはちょっとキツいかもしれない。三宅章代がなんとかまとめてくれた。Thank you ミヤケ!


[2002. 12. 03]  Air #074 をアップロード。

[2002. 12. 02]  Air #073 をアップロード。

[2002. 11. 29]  Air #072 をアップロード。

[2002. 11. 26]  Air #071 をアップロード。

[2002. 11. 24]  Air #070 をアップロード。

[2002. 11. 23]  Air #069 をアップロード。

[2002. 11. 21]  Air #068 をアップロード。
【続き】「無限に流れる情報の知覚の流れを恣意的にすくい取ったもの」としてのイメージは、依代(よりしろ=メディア)を問わない。いや、むしろ依代の存在をより希薄にさせ、空中に浮遊することを指向するかのように見える。小林のりおの言を借りれば、「消える写真」あるいは「写真は不定形」というニュアンスがこれに近いものかもしれない。


[2002. 11. 20]  Air #067 をアップロード。
「情報」という言葉をむやみに多用するのはあまり好きではないのけど、どうも情報という概念がないと視知覚のふるまいをうまく納得することができない。写真のような静止画像というのは、無限に流れる情報の知覚の流れを恣意的にすくい取ったものに過ぎない。その中にデカルト的三次元空間を再構築するのは、絵画に由来するかなり限定された静止画像の利用行為になるのだという。たとえばブレたりボケたりすることを撮影者の主観の現れと見るようなモダニズム美学は、もはや賞味期限が切れちゃってるってこと。いつまでもひからびた美学ばかり食べてると、今にお腹こわすよ。


[2002. 11. 19]  Air #066 をアップロード。
何かを指し示すように写って何が面白い。空間の再構築をして何が面白い。もとより主観も客観も何もないのだ。そんな二元論は幻想に過ぎない。あるのはただ何かが写ってしまう、という事実だけだ。何かが写ってしまう、つまり何かの存在が情報としての痕跡を残すこと。そのほとんど奇跡とも思われる現象に参画することが許されていることだけでも幸せなことだ。そこに意図が介入する余地は全く無いんだ。美しい構図だの決定的瞬間だのといった、人間の小賢しい意図などはくだらない余計な横槍だ。シャッターを押す行為など脊髄反射で十分。写ってしまう、という現象そのものに敬意を持って接すること。もう完全にそれだけだ。


[2002. 11. 18]  Air #065 をアップロード。
人にものを教えることは悲劇であり喜劇でもある。不まじめであることの誠意というものが存在できないような場なら、ない方がマシってもんだな。


[2002. 11. 16]  Air #064 をアップロード。
冬の蛍光灯だか水銀灯だか、ギラギラした街灯に照らされる植え込みのみどり色の、その毒々しいプラスチックじみた光が今ここにあるリアリティ。膨大な記憶の中の裸電球→横丁に逃げない本当の原理主義は目が前に付いているんだきっと。


[2002. 11. 15]  Air #063 をアップロード。
痛み止めやらカゼ薬やらとっかえひっかえ交互に飲んでいる。そのせいか頭がちゃんと回らなくなってるようだ。


[2002. 11. 14]  Air #062 をアップロード。
冬の夜は実験にこそふさわしいのではないか。実験のない人生はつまらない。


[2002. 11. 13]  Air #061 をアップロード。
10日前から痛かった肋骨、実は折れていた(笑)。何かを壊したかったら、まず自分から壊れろ、ってことなのか。久々のレントゲン写真はやっぱり素敵。デジタルレントゲンだったらもっと素敵だと思う。


[2002. 11. 12]  Air #060 をアップロード。

[2002. 11. 10]  Air #059 をアップロード。
合言葉は「D」。  Adieu Photograph - D


[2002. 11. 8]  Air #058 をアップロード。
Adieu Photograph - D がいよいよ本格的に始動。戦闘開始だ。合言葉は「D」。壊すのではなく、自ら壊れることからスタートする。


[2002. 11. 7]  Air #057 をアップロード。
Adieu Photograph - D がいよいよ本格的に始動。戦闘開始だ。合言葉は、「D」。


[2002. 10. 30]  
最後に現実空間のギャラリーで個展をやってから、来年の3月でまる5年もたつことに気がついた。ギャラリー展示をやらなくなったのは、活動の主軸をWebに置いていたためということもあるのだが、ぜひここでなら展示をやってみたい、と思わせる空間に出会わなかったという理由も大きい。先日、前々から気になっていたのにもかかわらず、これまで行く機会を逸していたギャラリーを訪ね、その場で借りることにしてしまった。そのギャラリーは、隅田川に面した建物の4階にあって、窓からは川面がすぐ目の下に広がっている。しゃがむと床の延長上に水面がつながって見えるような、とても面白い空間だった。どうもわたしは多少クセのある空間でないと積極的に展示をする気にならないようだ。窓がなくて6面真っ白、現代美術御用達な空間なんかは、見るのは好きだが自分の作品を展示しようという気分にはならない。
5年ぶりのギャラリー展示による個展は来年3月。詳細はINFOを見てほしい。


[2002. 10. 28]  Air #056 をアップロード。
空を撮って歩いていると、すれ違う人がつられて空を見上げることがよくある。そして不思議そうな顔をする。見るべきものなど何もない、という判断こそがむしろ正しいのだろう。何もないところに何かを見てしまう狂人であり続けたい。


[2002. 10. 25]  Air #055 をアップロード。
画面上では成立していたはずのイメージが、紙の上にプリントされると変質して別のものになってしまう。壊さなければならないものは、まだまだたくさんあるらしい。自分の中の強固な価値基準がもっとも手ごわい。


[2002. 10. 19]  Air #054 をアップロード。
ブレた写真はなぜ、失敗と見なされるのか。われわれは世界が「動く」のを大量の静止画像の滑らかな連続送りと認識しているため、一枚の静止画像の中に移動の軌跡が痕跡として残されるのを、どちらかというと嫌う傾向があるからなのではないか。人間の視覚画像だってブレている(目の前を移動する自転車を追う眼を、自転車を追うのを止めないまま背景に逸らしてみてほしい。ちゃんとブレてるでしょ?)のに、それは見ないことにされているのだ。注目しているポイント以外は見えないようにする。「正常を指向する意識」がそういう情報操作をやってのけている。
Web個展もそろそろ終わり。看板を引っ込めることにしよう。


[2002. 10. 16]  Air #053 をアップロード。
上下をひっくり返して見ると、海というものはかなり変なものだ。このおかしさは言葉では言い得ない。


[2002. 10. 11]  Air #052 をアップロード。
疲労の極にあっても、晴れているとついつい撮影をしてしまう。青空はドリンク剤より効く。


[2002. 10. 10]  Air #051 をアップロード。
空に落ちたい。空に落ちたい。空に落ちたい。


[2002. 10. 07]  Air #050 をアップロード。
こんな雲の出る日は、雲に落ちてみたいと思う。飛行機から雲にダイブするのではなくて、今いる地面から天に「落ちる」のだ。上下逆さの感覚は、突然出てきたのではなく、子供の頃からしばしば感じていたことをメソッドとして固定しただけにすぎないことに気づく。どう考えても単なる思いつきレベルを越えていると思っている。


[2002. 10. 04]  Air #049 をアップロード。
上が上で下が下。誰かが決めて、誰もが正しいと思って疑うことのなかった「制度」。レンズを通した映像、つまり現実の投影はもともと上下が逆だったのだから、逆の方が自然だ、ということになっていた可能性もあったのに、そうならなかっただけの話。別に奇をてらっているわけでもなく、身の回りから感覚の拡張を試しているだけなんだなきっと。同じ絵の具を使いながらも、従来考えられていた現実の複製でない、ブッ飛んだ絵を描き始めた連中や、すでに作られてあるものを美術作品として美術館に持ち込んだ奴。今でこそリスペクトされているがその当時はきっとバカだと思われていたに違いない(笑)。上下逆さのイメージも今のうちに、思う存分バカにしておいてほしい。


[2002. 10. 02]  Air #048 をアップロード。
広田、中山に続いて、古家佑実渕上繭子がそれぞれ個人サイトを立ち上げた。どこまで走れるか楽しみ。現在の写真界がどうあろうと、Web写真のムーブメントは着実に拡大している。従来あった「何か」に取り付き、シロアリのようにそれを侵食しているのか、それとも新大陸の開拓のようなものなのか。まあそんなことはどっちでもいいのだけど。でもどう考えても写真的リアリティって、すでにこっち側に乗り移ってるんじゃないの?


[2002. 10. 01]  Air #047 をアップロード。
明晰な画像なんていらない。色彩感だけで生きていける。などと思ってしまう秋雨の日。気圧計の針が普段ではあり得ない位置まで下がっている。台風が接近しているのだ。


[2002. 09. 23]  7月のゼミ展以降、広田早智子中山京子がそれぞれ個人サイトを立ち上げて、更新の日々を送るようになった。広田の作り出すイメージは犬の目から見た世界(文学的な意味ではなく、本当に犬の視線で撮られている)で、中山のイメージはさまざまなスタイルが混在しており、世界を切り取るメソッドを模索している最中であることが見て取れる。自己と向き合いながら、自閉的にならないWeb空間の中で、ふたりの今後の展開を見守っていきたい。


[2002. 09. 20]  アメリカ東部標準時間で20日から、「Air Unusual」が無事オープンした。オープニング・パーティも何もない、地味なWeb個展。しかし変化は少しずつ、着実に訪れている。世界の新しい見え方と、世界の新しい使い方。既存の枠組みの中の古びた価値に、もはや用はない。
オープン早々、さっそく見に行ってくださったみなさんと、バーチャルで乾杯!

    ●佐藤淳一Web個展「Air Unusual」
    GalleryArtist.com にて10/19まで開催中。
    【会期中の更新や追加はありません。曜日によって展示されるファイルが変わります】


[2002. 09. 18]  午前3時過ぎ。「Air Unusual」のファイルがようやく完成。30MB弱を8つのファイルに分割してたった今、メールでニューヨークへ送った。この一連の作業に費やされたエネルギーは、一体どこへ行くのだろうか、などと考えてしまう。
オープニング・パーティも何もない、地味なWeb個展がもうすぐ始まる。日本時間だと実質、21日あたりからオープンということになると思う。曜日によって展示内容が変わる構成になっている。


[2002. 09. 11]  Air #46をアップした。
1年前、すでにアップしていたDaysのその日のデータを、思わず日付をフレームいっぱいにしたものに差し替えたことを思い出す。1年、というくくりはとても便利な文明の発明品だ。365日、日を遡る手間をかけることなく、1年というステップで瞬時に記憶にアクセスできる。年、10年、世紀・・・というくくりで、大量の記憶はどんどん集約されていく。数十年や数百年、自分の存在が記録されて残ったとて、何の意味もないことだ。すべては圧倒的な時間の波濤の中に埋もれ、消え去るだけのこと。
以下、Web個展のお知らせ。

    Air Unusual
    SATO JUN ICHI  photographs
    GalleryArtist.com
    Sep 20 - Oct 19 2002 (EDT = UTC - 4h)


[2002. 09. 06]  ヘルシンキからコペンハーゲンを経て、雨の東京へ帰ってきた。
急な話だが、NYのGalleryArtist.comでのひさびさのWeb個展が決定。9月20日から1か月間の予定。詳細は数日中にお知らせできると思う。


[2002. 08. 30]  オスロ、ストックホルムを経てヘルシンキに来ている。どんどん秋が深くなる感じ。
I'm in Helsinki now.


[2002. 08. 24]  本日、オスロからストックホルムへ移動。もう秋だ。毎日とはいかないが、Daysは続けて旅先アップロードをしている。たまに見てもらえるとうれしい。
I'm in Stockholm now.


[2002. 08. 20]  Air No.45
ちょっと家出。しばらく帰らない。Airはそのままにしとく。
I'm absent from Tokyo.


[2002. 08. 16]  Air No.45
いろいろなものが空中に浮いている。かなり、可笑しい。


[2002. 08. 14]  Air No.44
坦々と、イメージそのものへ。


[2002. 08. 13]  Air No.43
蝉の声の変化で、夏のピークの過ぎたのを知る。


[2002. 08. 11]  Air No.42

[2002. 08. 10]  Air No.41

[2002. 08. 08]  Air No.40
空が青いというのは、理由はどうあれ、やはり不思議だと思う。


[2002. 08. 08]  Air No.39
CCDが終わって数日たって、また淡々坦々。どこへ行けるのかも定かでない、空気を追う日々。


[2002. 08. 07]  Air No.37
CCD-unit Collaboration 終了。ありがとうございました。また来年の夏。


[2002. 08. 06]  Air No.36
CCD-unit Collaboration 終了。ありがとうございました。


[2002. 08. 02]  CCD-unit Collaboration 加速中!
休止中だったアメリカのオンラインギャラリー、GalleryArtist.comが復活。  → http://galleryartist.com/


[2002. 08. 01]  CCD-unit Collaboration スタート!

[2002. 07. 31]  「Air」第35回。
視覚認識の言語による分節作用からの逃走のために。安定した理性的な構図と、静止と結像にはしばしの別れを告げよう。
CCDはいよいよ今晩(8月1日午前0時)スタート!


[2002. 07. 29]  「Air」第34回。
視覚認識の言語による分節作用からの逃走のために。安定した理性的な構図と、静止と結像にはしばしの別れを告げよう。


[2002. 07. 27]  「Air」第33回。
ゼミ展に続いてCCD。今年は5日間の短期決戦。8月1日から。  → http://CCD-unit.com/


[2002. 07. 27]  「Air」第32回。
夏のゼミ展(Web展)が終了。最後にじっくりと付き合うつもりでいたら、何とプロバイダがトラブって接続ができなくなった。最初は家のルータが壊れたと思い、いろいろいじくっていたら日が変わってしまった。急遽PHSからつないで展示の終了を見届ける。ついでに某掲示板に寄ったらプロバイダ側のダウンであることが判明。一気に脱力した。この1週間、Webで突っ走れーなどと吠えてきたが、考えてみればわれわれが安心しきってデータを流通させているこの回路は、結構、脆弱なものなのだ。それを忘れてはならない。だからといって、メディアの歴史を逆回転させることはもちろんできない。立っている地盤が脆弱であろうが何だろうが、とにかく今のわれわれは走り続けねばならないのである。


[2002. 07. 25]  「Air」第31回。
夏のゼミ展(Web展)6日目。もはや残りあと1日だ。美術はいつの時代でも、技術の先端と結びついていた。つまり純粋な美術の活動の中には、必ずその時代の時代性が内容、手法ともに畳み込まれているのだ。しかし残念ながら価値判断はいつも遅れてやってくる。新規な仕掛だけが売り物だの深みがないだの軽薄だのというネガティブな評価は、時代というものに真正面から向き合う作品に投げ掛けられる常套句なのだ。すでに、われわれれの暮らしている情報環境は変わってしまったのだ。従来の枠組みは一旦、壊さなければならない。従来の物差しも、一度たたき折らねばならない。家元制度的評価システムに安住する作家などクソ食らえだ。大学のシステムだって、硬直化してればもちろん壊す。新しい技術、新しい環境で何が言えるのか、徹底的な実証こそが今、もっとも重要な仕事だ。突っ走れ!


[2002. 07. 24]  「Air」第30回。
夏のゼミ展(Web展)5日目。残すところ2日。WebでWebならではの作品を作って継続的に見せていく、という表現活動。その方法論についてもっと意識的であること。さらにはその面白さをもっと広めること。どちらも、もはやわたしの世代が中心となって行うということは考えられない。今、10代、20代の連中がこれから荒野を開拓していくのである。わたしたちの世代の今なすべき仕事は、価値の確定しきった表現旧世界の中で微小な差異の中に住みつくことでも、既存形式の中を言葉巧みに泳ぎ回って金看板を掲げることでもない。旧世界の中でまだ使える概念を荒野の方へ持ち出し、移植することが必要なのだ。移植した木々はやがて繁茂して木陰を作り、地下水を涵養し、荒野に拓かれた新たな表現の田畑を守ることになるのだろう。ゼミ展の様子を見ていると、そのための橋渡しをすることにはたしかに意味があるなあと思えてくる。伝統とか文化の継承とかいうものは、ずっと同じ価値観にしがみつくことではなく、こういう断続的な飛躍を伴ってはじめて達成されるのだ。


[2002. 07. 23]  「Air」第29回。
夏のゼミ展(Web展)4日目。もう後半戦だ。連絡用のメーリングリストではいまだにいろんな悲鳴が聞こえて来るのだが(Macで見れないだのWinでは動かないだの)、よっぽどの重症を除いて基本的に放っておくことにしている。自分で悩みながらタグやらスクリプトやらと格闘する日々を経て、この新しいおもちゃを自由に乗りこなすようになっていくはずなのだ。既存の価値基準やら表現のカテゴリーやら、そういうウザったい古い構造からするりと逃げて、今まさに自分がつかまえたばかりの、とびきり生きのいいデータを思う存分投げつけてくる様子は気持ちがいい。やはり夏はこうでなければ。


[2002. 07. 22]  「Air」第28回。
夏のゼミ展(Web展)3日目。なかなかすべての作品を隅から隅まで見る(たどる)ことができないでいる。まだ残り日数があるから、終わるまでに何とかすればいいかとも思っている。ちょっと火をつけたのがぼわっと燃え上がっていたりして、面白い。それにしてもほぼ全員が自分専用のBBSを設置してて、それがすべてコミュニケーション回路として機能しているのはちょっと見事だ。まあ「感想を書いてね」ノートが個別に、それぞれの展示の傍らに置いてある、というのは卒制展なんかでもおなじみの光景であって、別に不思議でも何でもないのかもしれない。集団で行動していても自分の場所はきっちり確保、という世代特有の空間意識が現れているだけのことなのである。楽しくお花畑を作っているのをとやかく言うつもりはない。しかしBBSの内容を覗き見していると、それぞれが今後、孤独な表現の現場に旅立って行くことができるかどうか、ちょっと心配になってしまった。


[2002. 07. 21]  「Air」第27回。
夏のゼミ展(Web展)開催中。学生はさまざまな態度、温度でそれぞれお店、いや展示ブースを開いている。誠意を持って日に何度も更新をするやつもいれば、何を言いたいのか、自分でもよくわかってないやつもいる。さらには差し出された手を思いっきりかじるようなことをしているやつも、いる。そういう年頃、と言ってしまえば簡単過ぎるのかもしれないが、この場合やはりそう言うしかないのだろうと思っている。誠意に対して必ずしも誠意が返ってくるとは限らないし、人の手を噛んで褒められる犬も、世の中にいないわけではない。人を喜ばせることができるやつは、喜ばせればいい。人を怒らせるやつは、平手打ちをくらうことを覚悟の上で、怒らせればいい。表現者が逃げも隠れもしない限り、表現は限りなく自由なのだ。


[2002. 07. 20]  「Air」第26回。
日本カメラ8月号に、谷口雅氏がAirについて書いている。氏の推測に反して、Airは案外長く続くかもしれない。この「かもしれない」がまさにWeb的たる所以なのかもしれない。
夏のゼミ展(Web展)開催中。ゼミ展に関していろいろな反応を直接、間接にもらっている。なかでもこのスタイルになじみのない方面からは、否定的な声も聞こえてきたりして、学生達がショック(笑)を受けていたりしているようだ。そういう反応をする人たちに対しては、Web exhibitionというイベントは、完成したデータを見てもらうものではないんだよ、と言っておきたい。完成に至るプロセス、あるいは完成という段階を最終目標としない、いわば「経過そのもの」を見てもらう、のがWeb展だ。おそらく展覧会という名称はふさわしくないのだろう。むしろアトリエ公開とか、公開制作とか言ってしまえば、あらぬ誤解が起きにくかろうという気もしている。


[2002. 07. 19]  「AIR」第25回。
夏のゼミ展(Web展)スタート。今年は3年+4年のダブル展覧会。
われわれはWebで動的に表現する。Webを単なる商売道具と考えたり、仲良しクラブとして使うことしか知らない世の中の反動保守な連中は、間抜けなウイルスでもくらって寝てなさい。われわれは勝手に、進み続けるだろう。


[2002. 07. 18]  「AIR」第24回。
歯が痛い。歯が痛いだけでいろんな部分の調子が狂ってしまう。そういやあクーラー浸けで喉も痛い。もうボロボロ。
夏のゼミ展(Web展)スタートまであと1日。今年は3年+4年のダブル展覧会。Webを単なる商売道具と考えたり、仲良しクラブとして使うことしか知らない世の中の反動保守な連中は、間抜けなウイルスでもくらって寝てなさい。→ http://dipale.musabi.ac.jp/s/s-jsato/


[2002. 07. 16]  「AIR」第23回。
サーバがいっぱいになってしまうので、古い回のデータを消しはじめている。最新の1回分だけを残して、後はそのつど捨ててしまうのが本当だろう、とは思っている。サービス精神がアダとなって・・・よくある話だ。


[2002. 07. 15]  「AIR」第22回。

(2002 / 07 / 14)  「AIR」第21回。
誕生日、第39回。
信じられない。あと1年で40年も生きていることになる。こうなったら覚悟を決めて、プレミアムおやじでいこう。


(2002 / 07 / 12)  「AIR」第20回。
体の周囲にまとわりつく、空気の層。それに比べて成層圏の外では、何とまあ、ものがはっきり見えることか。


(2002 / 07 / 11)  「AIR」19回目。
今日は昨日で昨日は一昨日。時間があいまいな方が自然なのだ。


(2002 / 07 / 09)  「AIR」18回目。
ひさびさに旅先から更新。巨大な空気の渦が近づいてくるのが感じられる。


(2002 / 07 / 08)  「AIR」17回目。
空気は、光にとっては邪魔な存在なのかもしれない。
WCP G5スタート。6日間の戦いの後に何が結晶するのだろう。   → http://nmrt.jpn.org/wcp/


(2002 / 07 / 07)  「AIR」16回目。
森の中を歩きながら考えた。
視座が静止していることが理性的、客観的な画像を形成する、という思い込みもまた、相対化されなければいけない。ブレのない画像をよしとする価値観は、ひとつの制度の中で要請されているスタイルにすぎない。ブレのない画像を作りだすために込められた意図の総量は、脊髄反射的に得られたブレ画像におけるそれよりはるかに多い。主観的、意図的な写真とはいったいどっちを指しているのか、もういちど考えてみる必要がある。


(2002 / 07 / 05)  「AIR」15回目。
14年前の夏に1か月だけ住んだ家がいったいどこだったのか、見つからない。


(2002 / 07 / 04)  「AIR」14回目。
空気の密度がどんどん増していく。


(2002 / 07 / 02)  「AIR」13回目。
晴れの日よりも雨の日の方が、ものの表面に色が現れる。空気の重さを感じることができるし、空気の匂いも濃厚だ。雨が止んで、そのことにはじめて気がついた。
三宅章代さんのページに、小林のりおさんのインタビューが公開されていた。ツボを押さえた上出来なインタビューだと思う。→ http://www.ne.jp/asahi/yuuhi/about1380/interview.html


(2002 / 07 / 01)  「AIR」12回目。
イシモ ヌレテイル
ソラモ
ユビノサキモ ヌレテイル
ドウシヨウモナク イタシカタナク
ヌレテユク

イマ
カナシイトモ オモワナイ
タダ
ミョウナ 深ミ
エジプトノ ピラミッドノ
アノ中ノ石棺ノ
ワビシサガ
ナントモ ジブンノ モノノヨウダ

中屋幸吉「最後のノート」より


(2002 / 06 / 29)  新シリーズ「AIR」、11回目。
暗い森の中の道。高湿度で濃密になった空気を吸い込みながら歩く。


(2002 / 06 / 28)  新シリーズ「AIR」、10回目。
空気の海。その底であっちに行ったりこっちに行ったりしてうごめく、わたしたち。


(2002 / 06 / 26)  新シリーズ「AIR」、9回目。
空気があることによって、ものはかなり濁って見えているのだ。


(2002 / 06 / 25)  新シリーズ「AIR」、8回目。
空気、空気、空気。


(2002 / 06 / 24)  新シリーズ「AIR」、7回目。
澱んだ古代の空気のことを想う。


(2002 / 06 / 23)  新シリーズ「AIR」、6回目。
歩きながら空気のことを考える。
口から吸い込み肺で味わい、吐きだす。その空気をまた別の人が吸い込む。かなり不気味だ。


(2002 / 06 / 22)  新シリーズ「AIR」、5回目。
夜の団地。
亡霊のような姿でたちあおいが空気の中で揺れている。


(2002 / 06 / 21)  新シリーズ「AIR」、4回目。
へりの音。
空気の振動が鼓膜で破砕する。


(2002 / 06 / 20)  新シリーズ「AIR」、3回目。
雨の降りはじめには、いつも不思議な感覚が伴う。ものすごい高いところから水滴が突然、落ちてくるのだ。雨とはなんとまあ乱暴な現象であることか。やさしい雨、静かな雨、というのはウソで、すべての雨は暴力的だと思う。
もうほんとうに、どうしようもなく、われわれは空気の中で暮らしているのだ。


(2002 / 06 / 19)  新シリーズ「AIR」、2回目。

小杉武久のインスタレーションを見に行った。
音は空気の振動であるこという誰でも知っている事実。しかしそれはあらためて認識すればするほど、楽しく、かつ不思議に思えてくる。ほんとうに、どうしようもなく、われわれは空気の中で暮らしているのだ。


(2002 / 06 / 18)  新シリーズ「AIR」。
雨があがった空を見ていたら、自分が空気(Air)の中に住んでいることに突然、気がついた。
呼吸という行為が、とんでもないものに思えてきた。風という現象が、暴力的なものに思えてきた。


(2002/06/03)  ひたすら坦々と、日付との格闘が続く。
日々のさまざまな起伏も、ライフスパンで考えるとフラットなものだ。毎日毎日の営みは何ら明確な記憶を結晶することなく、日付の撮影はホワイトノイズがメモリーに蓄積されていくがごとき、ひたすら空虚な様態を呈するのみ。
こうなると、しぶとさだけが売り物だな。


(2002/05/21)  約3年の間、止まらずに動いていた自宅サーバをついに停止する。思った以上に部屋が静かになった。音量を落とした無伴奏チェロ組曲がよく聞こえるようになる。ここに引っ越してからずっとハードディスクとファンの音がBGMであったことに気が付いて、ちょっと愕然とする。
Webサーバと寝起き(といっても同じ部屋で寝ていたわけではないが)を伴にする、というのはよく考えると不思議な体験であった。最初の数か月はかなり面白かった。なにしろ自分のサイトに来るお客さんがリアルタイムで観察できるのである。もちろんどこの誰が来ているなんてことはわかりようがない。プロバイダであれば会社とアクセスポイントがわかるだけである。しかしメールアドレスから利用しているプロバイダが割れている知人であれば、その行動パターンに照らし合わせてほぼ間違いなく来訪を知ることができるのだ。しかし今日も来てくれたといってお茶を出して接待などできるわけでもない。店主としては口を開けて画面上を流れていくログを眺めているだけである。自分としては面白いんだか面白くないんだかいまだによくわからないのだが、人にこの話をすると、たいそう面白がる人と気持ち悪がる人に反応が真っ二つに分かれる、ということも書いておこう。比率としては後者の方が若干多めだ。つまり足どりをつかまれたくないような使い方をしているのが、多くの人のネット利用の姿なのである(自分を棚に上げてこんなひねくれたことを言っていると嫌われるぞ)。
しかし、それも飽きた。Webはリアルタイムで付きあっているとすぐに煮詰まってしまう。Webは基本のフォーメーションが「すれ違い」なのだ。仕掛けておいた網にお客さんという魚が入っているのを、その翌日ぐらいに引き上げるような時間差のあるつきあい方ができないと、うまくその尻馬に乗れない。直接対峙、同時の対峙ではなく、すれ違いの対峙。


(2002/05/08)  ワーグナーをフルトベングラーで。10年前だったら絶対に聞かなかったぞこんなもの。鳴らしているのは例の、小学生の頃に田んぼの畦道で拾った真空管でこしらえたアンプだ。それにしてもこの真空管たちはかなりの果報者である。わたしでなくて悪ガキに拾われてたら、次の瞬間に癇癪玉の代わりにされて道にたたきつけられ、確実にこの世から消えていたはずだ。でも21世紀まで生き延びたおかげてこんな大仰な、まるで似合わない音楽を鳴らされる羽目に陥ってしまったとも言える。何と言っても広沢虎造とか東海林太郎とかを現役で鳴らしていた頃の純国産の管なのだ。まあこのワーグナーだって1947年録音だから、少なくとも時代的にはいい勝負ではある。こいつでジャーマントランス系テクノを鳴らそうっていう方がよっぽど似合わない。
WCP(WWW Collaboration Project)の第4回(高橋明洋 VS 氏家岳寛)が1時間前ほどに終了。コラボレーションはやはり、終了直前の30分が面白いということを再確認する。要は時間の共有がもたらす場の立ち上がりが面白いということ。あるいはチャットやらテレフォンセックスやらといったような無為な現象と同類項なのかもしれないが、それで片づけてしまうのはあまりに乱暴だ。では限定された時間における微小なシンクロニシティの重なりというわけのわからない説明はどうだろう。同じ時刻に別の場所で別の意志によって行われた行為や思考が、電化されたコミュニケーション回路によって結びつけられ、傍観したり介入したりすることができる、というぐちゃぐちゃな意志交換の重なり合い。それを音声や文字といった単独メディアではなく、文字に画像が結びついたものを使ってやってるのがウェブコラボレーションであるということだ。終了30分前という時間限定が導入されて熱狂を呼ぶという構造はシンクロニシティの意図的パワーアップなのだな。


(2002/05/02)  BWV1004。パルティータ・ニ短調。リュート用のアレンジは情感が出過ぎのような気がする。
小学生の時、田んぼの畦道に捨てられていた古いラジオから引き抜いた真空管が実家の押入の中にあったのを、1年前に持って帰った。簡単なアンプをこしらえてみたら、25年以上(拾った当時でも相当古かったのだからおそらく計40年以上)寝ていたのにもかかわらず、ちゃんと鳴ったのには驚いた。同時に持ち帰ったこれまたラジオ用の小さな楕円スピーカーにつないで、ごく小さい音で夜中に鳴らしている。こんな簡素な装置でも、伝わるものはきちんと伝わって来る。技術の進化とはいったい何なのか。
長い間放ってあった水門ページの改造に着手する。何とかしてデータベース化したいのだが、どうも脳がデータベース向きに出来てないらしく、今回もすでに挫折ぎみ。なにしろ水門ページを楽しみにしてくれているひとが意外なほどたくさんいて、夜中にひっそりと楽しんでもらっている姿を想像すると、やはり何とかして理想的な状態に近づけたいと思えてくる。
技術だけでもなく、表現だけでもない、ある種の高みを夢見ながら。


(2002/03/14)  ゴールトベルク変奏曲。いつも流すグールドのではなくて、トン・コープマン。正統的だ。
教科書だの何だのの執筆、さらに図版の校正だ何だで春の日々が流れていく。メーラを代えた勢いで、何年もの間、沈殿していたような古いメールを掘り起こして、捨てた。古い写真に引き合いが来たりして、4x5ポジを引っ張り出しスキャナにかける。チェンバロの再生音とスキャナのうなりが、重なる。
デジタルだのネットだの、今や当たり前のことを、ことさらに全面に出していくのは、もう止しにすることにしよう。普通に使っているのだから、普通にしてればいい。最先端の技術は、徹底的に使う。しかしそれを目的に据えたように見えるようなスタイルは、そろそろ引っ込めてもいいんだ。


(2002/02/04)  一枚一枚の写真に意味がある、という状態に腹が立つようになってから、随分長い時間が経過した。では集合したイメージに意味があることに、腹は立たなかったのか。今にして考えると、やはり腹が立っているようだ。意味がむくむくと現れてくることが、どうにもやりきれない。20世紀と21世紀の境界近傍領域の「Days」を2年分ほどプリントしてみたら、そのうち自分に腹が立ってきたのだ。メロディのはっきりした曲を耳にしたときに感じる気恥ずかしさのような、人に気取られることに対する軽い恐怖感。自分では意味の保留、あるいは未生成の低温状態の冷ややかさをキープしてきたつもりが、俯瞰して見ると意味の島が見えてくるのだ。
日常そのものであるがゆえにもっとも意味を感じることがない。しかし状況によって強烈に意味がまとわりつくもの。
将来わたしが「Days」を終えた日の翌日以降も、日付は以前と変わりなく刻まれていくことを考えてみる。その想像の先にある茫漠さこそが、プロジェクトを動かし続ける燃料として変換されるものだ。わたしは何も考えずに日々その変換を続けていけばよい。


(2002/01/29)  自分の展覧会でもないのに、終わると疲れが出る。ちょっとたちの悪い疲れ。疲れの質が違う感じだ。自分の展覧会が終わったあとの疲れの方がまだマシかもしれない。
気持ちに穴の開いたような時には、河原温の図録を眺めることが多い。面白いことに河原の作品は一応物体として結実しているにもかかわらず、所有欲を全く刺激しない。一点や二点の作品を所有したところで、河原の茫漠とした作品世界を自分の中に取り込んで愛玩することなどできるはずもない。だから図録で十分、あるいは見た、という経験だけで十分なのだ。そう思わせる強さが頼もしい。そういえばこのフランクフルト現代美術館で買った図録を見ていて以前気がついたこと。河原はバイオグラフィまでも作品領域の中に組み込んでいる。展覧会のオープニングの日なのかどうだかわからないが、作家履歴のページに項目はたったのひとつだけで、それは(1991年6月6日)21348日と、ドイツ語、フランス語、英語で書いてあるのだ。


(2002/01/27)  ゼミ展終了。問題はウェブ空間と現実空間をどうやって共存させるか、という点に尽きる。ウェブだけでは強度が足りない。では現実空間で無心にがんばっていればそれでいいのかというと、やはりそこには何かしらのしらじらしさが漂う。無心の行為に単純に感動してしまえるほど、われわれは素朴ではなくなってしまっている。ウェブの存在を全く無視した表現活動はもはや考えにくい。すべての表現活動は、他の人に何らかの情報を伝える行為である以上、その伝達媒体の変化という現象に無関係ではいられないからだ。
ところで、突然ではあるが人間はオカルトがないと生きていけない。今のデジタル環境で欠けているものは実はその部分だったりする。オカルトというと何だかマガマガしい感じがするので表現にまつわる神秘性、とでもしておいたほうがいいのかもしれない。画像でも音でも想像しやすい方を想像してもらえばいいのだが、とにかくデジタル化によってノイズレベルが下がったことにより、いままでもやもやーっと存在していた闇が退行した。すると今まで神秘と思われていた現象の化けの皮がはがれ落ちることになる。しかし闇のない論理だけの清明なデジタル世界では、人間は基本的に、もたない。そこで再びオカルトを導入することになるのである。デジタル時代の表現というのは、オカルトの導入方法が今までとは違ってくるはずなのだ。きっとそこが突破口だ。


(2002/01/19)  大学のゼミ展の準備を終えて、0時からのスタートを待っている。思えば去年から他人に何かを作らせる仕事が多くなった。それ自体は悪いことではないのだが、自分がものを作るエネルギーまで持っていかれるのは困る。今年はもう少しうまいことやらないと、いよいよ自分は何をやっているのだかわからなくなる。それにしてもWeb上のイベントのスタートを待つこの時間の不思議さよ。ひょっとして麻薬のような習慣性があるのではないだろうか。
それでは後期ゼミ展、乞うご高覧。


(2002/01/13)  Web上でものを作るという活動を突き詰めていくと、つまるところコラボレーションという形態でしか作品の存在価値がなくなっていくのだろう。勘のよくないわたしでもうすうすそれは感じていたが、スイスのcommunimage というコラボサイトをうろうろしていたら、それがはっきりと見えてきた。作家性、みたいなものを強調した従来型の制作主体はもはや消滅する。いや、この言い方は正確ではない。作家の仕事がもの(デジタル画像を含めて、もの、と言っておく)を作ることから、ものが連鎖していく仕組みを作ることに、移行するということか。


(2002/01/07)  いよいよ最終日のWCP Pre Ground 2。片っ端から見ているうちに、最初に見たページの内容が変わったりしている。これはランダムリンクとかそういう仕掛けじゃなくて、「作っている先から見ている」状態なのだ。モニタの向こう側に作り手の姿が一瞬、見えたようで悪い気はしない。
かつて、といっても7、8年ぐらい前だと思うが、webが普及する直前のこと、デジタルコンテンツの「全部見たかどうかわからなくてイヤ」感覚について問題にしたことがある。そのときはナビゲーションで解決しましょうなどというありきたりな解決策で収めたわけだが、今思えば問題の主軸がちょっとずれてたようだ。全部見たかどうかわからないことが問題なのではなくて、全部見ないと気が済まない、という感覚はどこから来るのか、ということの方が問題だった。その方がはるかに面白かっただろう。
情報があふれかえっていることについて、今さらどうのこうの言っても仕方がない。なにしろ近頃はサイトがザッピングリンクで釣り上げられるのだ。目の前を通りすぎていくもののうち、必要なものだけ取り分けて残りは捨てる能力を持つものだけが生き残る。文明の大きな曲がり角。角を曲がったところが天国か地獄かは、誰にもわからない。


(2002/01/04)  暮れから始まった丸田直美さん主宰のWCP。いまやPre Groundと称するステージの後半に入ってますますノッている。中に入ればナビゲーションというやさしいおせっかいなど一切存在しない。イメージの連鎖がラインを伝わってひたすら投げつけられる。プリントでもない、ビデオでもない、Photography as Web-based Art としか言いようのない、イメージの連なり。
それにしても、つねづねコラボレーションでは不思議な場が立ち現れるのを見る思いがする。Web上の写真というものは多分、メソッドや(画像の支持体という意味での)メディアの問題ではないのだ。限定された時間を共有することが、わけのわからない静かな熱狂の場を生みだす。しつこいようだが、ラインを伝わって飛んでくるのはイメージではなく、その連鎖の方である。そこのところに注意して見てほしい。


(2002/01/03)  定期的にweb上で文章を書くのを中止したのは1999年の暮れのことだった。つまりちょうど2年たったことになる。文章を止した理由はいろいろあったのだが、意志をテキストに込めることが、ある種のシミュレーションになって作品を流産させてしまうことや、読んでくれる人との間に生じる好ましからぬ距離感など、そんなことどもを問題にしていた記憶がある。2002年の今、webとそれを取り巻く状況を眺めてみれば、2年前と変わらずに横たわり続ける問題もあれば、とっくに吹っ飛んでしまった問題もあることを認識することになる。ここらで輻輳する思考の位相を整えるためにも、再びテキスト化の作業を行ってみることにする。ただし今度はひっそりとだ。言葉に全幅の信頼を置くことができないのは今でも変わらない。
Web上の写真サイトの数は増えているのだろうか。きっとものすごく増えているに違いない。2年前と今の、デジタルカメラの出荷台数や、ネット人口を考えてみれば、減っていると思わせる要素は何一つない。ではその増えた写真サイトの中で、いわゆるシリアス系というかファインアート系というか、いわゆる「趣味でも営業でもない写真」サイトはどのぐらいあるのだろうか。おそらくそう多くはあるまい。ということは、分子である趣味でも営業でもない写真サイトは2年間でほとんど増えず、分母の全体の写真サイトの数だけ増えている、つまり前者の比率は2年間でむしろ低下した、というかなり悲観的な推察が成り立つことになる。普及に伴う希薄化、ということである。何が希薄になっているのか、は言わないでおくのが花だろう。
2年以上前にも、もう写真と言うのは止そう、と書いた覚えがある。その考えは今でも変わらない。もう写真という岸から離れてしまった、という実感もある。では向こう岸は見えているのか。いや、実は向こう岸なんかは初めっからなかったのである。あればいいな、ぐらいで泳ぎだしてしまったのだが、やはり岸はなかった。ではどうすればいいのか。こういう時は、「作ればある」と考えることにしている。そう、岸を自分で作る必要がある。Web上でなされる静止画イメージを使った表現活動をはっきりとした形でとらえ直すこと。そこに込められた意志の力を単なる思いつきレベルのものと峻別すること。そのためにとりあえず、活動にキーワードを与えてみることにする。Photography as Web-based Art、つまりウェブアートとしてのフォトグラフィ、ということである。なーんだ、なんて言ってはいけない。この切り口は今まで、気がつきそうで気がついていなかったものなのだ。