2001.07.29

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photo and text : Sato Jun Ichi
●ここのコラムに書くのはなぜだか北上川周辺の話であることが多いが、これは全くの偶然。東京に住んでいるわたしにとっては、ローカルの荒川や江戸川を想うよりも遠く離れた北上川を想う方がコラムとしての力が入るのかもしれない。この川(定川)は水系としては鳴瀬川水系だが、北上運河が横切っているという点でこれまた北上川と関連しているのだった●北上運河は、旧北上川河口である石巻から鳴瀬川の河口までの運河で、明治15年に完成している。岩手県南部から米俵など積んで下ってきた北上川の川船は、ここを通って最終的には福島県境に近い阿武隈川の河口まで穏やかな航海をすることができた。つまり北上川〜北上運河〜東名運河〜松島湾〜貞山堀〜阿武隈川という結構壮大な水運ルートがあったのである。明治の前半、鉄道が敷かれる前の話だ●北上運河が範としたのはイギリスの運河である。つまり運河の岸には馬が船を牽引するための専用道が設けられていた。今では文字通りなし崩し的に崩れてしまってよくわからない。イギリスのそれが芝生に覆われたまるで公園のような趣であるのに対し、われらが北上運河は松の並木に干からびた貝殻の散らばるような、あいまいなエリアを抜ける魚臭い淀んだ堀である。イギリスのそれが内陸を貫いているのに対し、こちらは海に並行しているのだからそれも仕方ないことなのだろう●アメリカを範とする高速道路網が明治以来の鉄道網を駆逐しつつあるように見える21世紀の日本。しかし100年後にはコンクリート高架の廃墟を見上げながら、馬に引かれた船で再び川を行くようになっていないとも限らない。