埋 没 す る 日 常

【1997年11月】





1997/11/21

●何だか書きたいことがいろいろあってまとまらない。ちょっと時間ができたのをいいことに、Moon Ridersなど聴きながら撮影ノートを引っぱり出して眺めてみる。実は朝が弱いわたしはこの時期ツライ。というのも、撮影に出かけるのが遅くなると日照時間が足りなくなるのだ(笑)。この時期、誰が何と言おうと撮れるのは4時までである。日中の光はクリアーでとてもいいが、撮れるのはもう絶対に4時までなのである。去年のノートにも今年のノートにも「もっと早く行動を開始すること!4時には撮れなくなるぞ」などと教訓めいた文句が書いてあって笑える。で、撮影地点や露出データなどを書き込むノートの余白に撮影の時に考えたことなど、ごちゃごちゃ書き留めてあるのだが、しばしば書かれていて面白いのが「5時のサイレン」である。

この8年ほど自動車というものを所有していないわたしは、いつも撮影機材一切合財を背負って最寄りの駅から目指すポイントまでひたすら歩いている。行きは何も考えずただひたすら歩くわけだが、仕事を終えて陽が落ちて帰りの駅を目指す頃には余裕もできて、いろいろと考え事などしながら歩いていたりする。近頃わたしがうろうろする地域は、とりわけ河川の合流点が多い。河川は行政界、つまり県市町村の境になっているのが常であり、まあコンセプトどおり境界領域をうろうろすることになっているのである。この行政界というのがこれまた一筋縄では行かなくて、それが決定された時点での、つまり古い川の中央線が改修後にもそのまま生きていたりして、現状の地形から想像できないようなかなり入り組んだものになっているのだ。そんな地域を夕方、とぼとぼと歩いていて、5時になったとする。さあ、何が起きるか。一斉にありとあらゆる方向からサイレン、ミュージックサイレン、有線放送の類がぐちゃぐちゃに入り交じって聞こえてくるのである。おまけにそれに呼応する犬の遠吠えも。ぴぃんんんぽぉーーーんうーーうーーぐわんぐわんわおーーーんわおーーん。これがもし4つの行政地域の境界が接しているようなポイントだと(河川の合流点にはこのトポロジーがしばしばある)、約1分間の壮絶なポリフォニー大会が現前することになる。

ここでCDをカーネーションに替える。やはり『夜の煙突』は良い。で、そもそも、なぜ午後の5時を期して一斉に音響信号が発せられるのだろうか。工場の終業を告げる、児童生徒の帰宅を促す、などの理由が考えられるわけだが、いずれにせよ起源をたどれば全体主義的な目的に達すると見た。すごいよ、これは。今さら何なんだろう。どうして一斉に同じ時間に、ものごとを終えなければならないのでしょう。効率か。権力によるコントロールか。頭でわかっても、体が納得しない。いずれにせよわたしは、このような統制に従うことができないでいる。こういうのを不器用というのだろう。



1997/11/20

●昨日の撮影は利根川の支流小貝川の岡可動堰。地図上で見ると同じ地点にゲートが二重にあることになっていて不審に思っていたのだが、行ってみて事情がわかった。新旧二つの堰があって、こともあろうに旧堰は撤去工事がちょうど先月から行われているのであった。幸い昨日の段階では、旧堰本体はまだ解体を始めていなかったので、11扉ある古い水門の最期の姿は見ることができた。いずれにせよ事前に情報を得ることができなかったのは失敗である。ちなみに産業遺産として水門が保存されているのは、利根川水系では佐原の横利根川閘門や江戸川との分流点にある関宿水閘門がある。



1997/11/13

●展覧会のポストカードの版下を作っていて考えた。展示、ということについて。印刷メディア上でもない、スクリーンメディア(WWWとかね)上でもない。画像情報が物質として直接提示されることの意味は、何なのか。それは後でゆっくり考えるとしても、少なくとも今日的な展示という場に期待されるものは何なのか。物質化した画像を肉眼で直接確認したいということだろうか。それなら物質は物質らしく提示されなければならないだろう。プリントという存在は、黒子であることをやめて物質として自己を主張し始めるはずである。展示のスタイルは、かならずしも規格(マッティングやフレーミング)に踏襲的である必要もない。プリントは紙に過ぎない、ということを、否定的でも肯定的でもなく、常に意識していられる展示を考えてみる。



1997/11/7

●来年も2月に個展をすることにしました。毎回期間が短くて申し訳ないのですが、みなさんぜひ見に来てください。今度もピンホールですが、プリントは普通のバライタの印画紙です。まあ前回は古典技法やったりいろいろしましたが、何だか今の気持ちとしては手法的にはなるべくシンプルにして、しかし対峙するものはなるべく大きなものを選ぶ、というところに落ち着いています。途中ポラロイドのカラーを試したり、4x5インチにしてみたり、やり方を変えてみたんですが結局、8x10インチでモノクロ密着焼き、という簡素な手法の居心地の良さみたいなところへ戻ってしまいました。機材が重いとかなんとかいうマイナスのファクターをもってしてもこのやり方は崩せないようで、こういう形での撮影は何か自分が現実に向き合う時のひとつの「型」みたいなものだ、と感じています。で、今度は水門ばかり撮ってるわけですが、たとえば100年に一度の超大洪水のために用意された巨大な水門が、目の前に15メートル程の高さの気違いじみたギロチン扉となって吃立している、という圧倒的な現実を、ピンホールカメラの超広角はいとも簡単に飲み込んで、圧縮してしまいます。昔話でヒョウタンをもった男が何でも吸い込んでしまうようなのがあったような気がしますが、まさにあのヒョウタンのようなものです。この不思議な感覚が何とか伝わってくれるような展示を考えなければ。



1997/11/1

●部屋の窓から見えるけやき並木の葉の色がそろそろ変わってきた。あと一月もしないうちに、再び枝だけの姿になってしまうのだ。そうするとここからも、別に見たくもないのだが、新宿の高層ビル群の明りが見えるようになる。生物の活動によって人工風景の内容が一変する。一枚一枚の葉は些細であっても、それが集合して活動するとそこに大きな存在が現われる。考えてみると凄いことだ。強風にあおられる大木の、葉のざわめきのうねるような音を想う。それにしてもデジカメを未だ持っていないわたしは、こんな日常ページを作っても、実際に日常を視覚情報としてここへ蓄積していくことができないでいるではないか。10月も終わるにあたって、仕方がないから先日上がってきたポジからフィルムスキャナで読んだ1枚を載せてお茶を濁しておく。

手前の船は千葉市海洋公民館。昭和19年に海防艦「志賀」として誕生し、その後博多〜釜山の米軍連絡船、中央気象台定点観測船、海上保安大学校練習船を経て昭和40年に廃船。千葉市が払い下げを受けて改装し、翌年公民館として利用開始した。これだけであればまあまあありそうな話で、わざわざ見にいくようなものでもなかろう。面白味は、この船の公民館が係留されていた稲毛海岸一帯が、昭和44年から埋め立てられてしまうところにある。この船の周囲だけ海を残して、周囲が埋め立てられてしまったわけである。今でもこの船は、海岸線から2キロほど陸側で海に浮かんでいる、という構図だ。1万分の1の地図であれば、全長79メートル足らずのこの船の形状は、しっかり地図上に刻み付けられてしまう。地図に捕捉されてしまった船というのも、何だか微笑ましいような情けないような姿ではある。

実際に行ってみると(10月10日)、思っていたほど違和感はなかった。一応海だと信じていた船の周囲も、やはり本当の海であるわけもなく、申し訳程度の深さの水たまりにすぎない。つまりすでに座礁しているのだ。水もなめてこそみなかったが、おそらく隣のプールと同じ出所の水なのだろう。そりゃそうだろう。周りは住宅団地なのだ。安全を考えないわけにはいかない。現在、公民館としての利用は停止しており、あるいはこのまま解体されてしまう運命なのかも。



←【10月の日常】へ





microtopographic web
Copyright (C) Sato Jun Ichi 1997