h u m d r u m【 埋 没 す る 日 常 ・98年10月】

●なぜ個人のWebページには必ずといっていいほど日記ページがあるのだろう●しかし誰のページでも読んでいちばん面白いのは実は日記系ページだったりする●埋もれていく無意味な日常をあえて無編集のままだらだらと記述し撮影し蓄積してその場で公開することで何か意味が発生するとでもいうのか●これはその実験●



1998/10/29



1998/10/29 Chiba
時々、半年に一度ぐらいだが、水面に浮上して息継ぎをしたくなることがある。
1998/10/28

1998/10/28 Kanagawa
CRTや液晶の上で見る、いわゆるデジタル画像。最初はあまり本気で付き合おうとは思っていなかった。別にキライだ、というんでなくて、何か本当のモノは別にあって(印画紙プリントとか版画とかタブローとか)、デジタル画像はその代償物である、というような気持ちがどこかにあった。しかしどうもこのところ頭の中の様子が変わってきてね。デジタル画像の美しさ、ってのがたしかにあるなあなんてとてもちょくちょく感じるようになってきたわけで。たとえばモノクロプリントの美しさは一般に黒で、これは印画紙の中の銀粒子をもっともふんだんに引っ張り出した結果としての美しさ、と理解される。それに対してCRT上で最も美しいのは白であろう。電子銃から放出される電子を最もふんだんに使った結果としての眩しい白。たとえば小林のりおさんのweb上のプロジェクト「風景の被膜」の最新作品。透過光の木の葉が、背景のフルビット255の白にブレンディングしていく美しさには本当にはっとさせられる。そういう今の気持ちと大幅なズレがあるのではあるが、来月、グループ展やります。19世紀の写真印画技法による現代の作品が何種類も一度に見れる珍しい展覧会です。わたしは新作を出せないのであまりイバれませんです。詳細はこちら。

PAF exhibition
1998/10/21


1998/10/21 Tokyo
何とまあ10日間、一度もシャッターを切っていなかったではないか。10月という月は元来、晴天が続くものである。しかし今年はどうもダメだね。何だか秋雨みたいな湿気をずるずるずると引きずっている感じ。実は標準的なる天候なんてものは無くて、毎年々々同じ季節に同じ天候が繰り返されるほうがむしろ異常なのだ、とも思うが、やはり秋は抜けるような青空が欲しいなあと素朴に思うのであった。それにしても毎年同じ季節に同じことをしたくなったり、さらには10年続けて毎年同じ曲を聞きたくなる、というのはある種の惰性なのではないかと思う。その「もう一度同じ気分を!」という回帰的行動傾向を打ち壊そうとするのに近ごろでは余ッ程の力をかけないといけなくなった。どうせこれから日本中年寄だらけになるのであるからと開き直り、そんな保守的行動特性を老人力などと号して肯定的に処世しようという昨今であるが、むろんそんなムウヴメントに賛して同ずるにはわたしの場合、まだ2、30年は早い。畢竟、当分は心にパンクスの灯を点して生き進まねばならぬことになる。
1998/10/11

1998/10/11 Tokyo
近ごろ「呼吸」が浅いなあと思う。別に変な健康法とか瞑想だとかに凝り出したわけではない。何だか常に追い立てられているように感じられる状態がずっと続いていて、気がつくと「何とかしなければ」とつぶやいてしまう。何とかしなければならないのはその切迫した状態の原因を絶ち切ることなのだ、ということは頭では理解しているのだが何ともすることができないのだ。それが生理現象の面では浅い呼吸になっているように感じられる。はあはあはあ。ちなみにこの10年以上、体重に大きな変化はないので、太ったための現象ということはないと思う。やはり精神的なものに違いない。何日かに一度、ふと気がついて呼吸のスピードを意識的に落とすようにしてみる。すると自動的に呼吸は深くなる。でもその結果、リラックスできたという感覚はあまりない。やれやれ。






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