h u m d r u m【 埋 没 す る 日 常 ・98年11月】

●なぜ個人のWebページには必ずといっていいほど日記ページがあるのだろう●しかし誰のページでも読んでいちばん面白いのは実は日記系ページだったりする●埋もれていく無意味な日常をあえて無編集のままだらだらと記述し撮影し蓄積してその場で公開することで何か意味が発生するとでもいうのか●これはその実験●



1998/11/24

1998/11/24 Tokyo
このところ人間が腐ってきたなあなんて思ってたら、カメラも腐れてた。一昨日、そのへんにころがしてあったニコンFのシャッターを何気なく切ったら音がおかしい。見るとミラーが当たる部分のスポンジ(モルトプレンなんて呼ぶ)がねちょねちょになっておった。友人からもらったいわく付きの大事なカメラだ。たしか最近オーバーホールしたやつをもらったはずだったのにと思って修理票(元箱に昭和40年当時の値札、修理票までいっしょにくれた。律義な友人である。最近どうしてるかな)を見ると、1991年とある。すでに7年たってる。7年経てばモルトも腐るわな。他の部分は全然問題ないので、自分で直すことにする。ちょっと硬めだが手元にあった発泡性のゴムを切って部品を作り、純正ねちょねちょを取り除いて貼り付ける。ついでに蒸着の浮きが出ているペンタプリズムをはずして、F2用のウエストレベルファインダのネームプレートをはずしたものと取り換えた。おー、これはイケる。んなことやってうちに、他のカメラもいじりたくなってきた。そういえばF2のミラーの音が大きくなっていたのが気になってたっけ。どうもミラーダンパがちゃんと動いてないようだ。軽く開けて軸とバネにちょっと注油。それからそこいらじゅうのカメラ(他はろくなものがない)のシャッターを切って、磨いてしているうちに久しぶりの休みは終わってしまった。その後で持ったデジタルカメラのまあ軽いこと。
1998/11/21

1998/11/21 Tokyo
酔っ払って帰り道、本屋に寄る。週に3回は本屋に行くクチだがこのところどうも本屋に接する調子が変化してきたように思う。以前なら何も収穫がないといくばくかの失望とともに店を出たものだ。最近は何だかザマーミロ、もう印刷メディアの時代は終わりつつあるのだ、なんて比較的晴れ晴れとした気分で出てくるようになった。文芸書や文庫本はそんなことはないのだが、雑誌に対してはどうにもそういう敵意のような気持ちがつのる。毎月々々、雑誌の発売日を楽しみにしていたような時代はもう彼方に過ぎ去ってしまったのだろう。複雑な思いで店を出て腐れた光の中を帰る。
1998/11/16

1998/11/15 Kagoshima
デジタルカメラを、光と色を捕らえる捕虫網みたいなものと考えると面白い。120〜130年前に印象派の画家達が躍起になって捕らえようとした外光と色は、今や手で握って振り回せる小箱で瞬時に捕まえることができるのである。この状況において視覚芸術は一体何をなすべきか。あるいは何ができるというのか。
1998/11/04

1998/11/04 Chiba
画像ファイルをサーバにアップロードしててふと思う。この画像データはこの先、いつまで存在することができるのであろうか。10年先にはほとんど無意味なデータになっているのかもしれない。20年後にはとっくに消えているかもしれない。でもわたしはこのデータ蓄積行為を繰り返している。何かを残す、という努力は大事なことのように思える時もあれば、とても無意味に思える時もある。自分が死ぬまで延々と続く「今」の連続だけは何か意味があるようにも思える。つまり過去や未来にはあまり意味がないのではないか、なんて気になってくる。
1998/11/03

1998/11/03 Kanagawa
実は11月に入って新しいプロジェクトをひっそりと始めたのだが、何とアップしたその日のうちに、小林のりおさんが自分のページで紹介してくれていた。何だかとてもうれしい気持ちがした。◆一日100アクセスが成功したページのひとつの基準である、といった話を以前どこかで読んだことがある。結構いい加減な基準だとは思うのだが、気にはなる。このmicrotopographic webには現在、一日平均で50件のアクセスをいただいている。こんな実用的な情報に乏しく、エロも懸賞もエンターテインメント性も全くないページに、一般的な成功基準の半分のアクセスをもらっているのだ。ということはmicrotopographic webはすでに十分に成功の範囲に入っているのではないかとも思えてきた。冷静によく考えてみると、一日に50人、誰かが見てくれているということは、これは大変なことだ。一日50人入らない展覧会なんてざらにある。メディアとして比較してみれば、もちろん瞬間値ではマスメディアにかなわない。しかしこの50人という数は意志という裏付けを持つ数である。マスメディアのような通りすがりに何万人が見た、という数とは単純比較ができない。意志を持つ数は濃密であり、蓄積を伴い、やがてマスメディアの作る虚像とは違った、実像を結像することになるだろう。◆ひさびさに小林さんにメールを出してみようと思ってやめた。ここに書けば読んでもらえるからだ(笑)。ネットワークという疑似空間での気持ちの伝え方、みたいなものが少しずつわかってきたような気がする。何となく、ではあるが。






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