h u m d r u m【 埋 没 す る 日 常 ・98年12月】

●なぜ個人のWebページには必ずといっていいほど日記ページがあるのだろう●しかし誰のページでも読んでいちばん面白いのは実は日記系ページだったりする●埋もれていく無意味な日常をあえて無編集のままだらだらと記述し撮影し蓄積してその場で公開することで何か意味が発生するとでもいうのか●これはその実験●



1998/12/31

1998/12/30 Chiba
下のような文句を書いたまさに翌週、デジタル画像を紙にひたすらプリントしまくる羽目に陥った。ぎりぎりになったこんな時期に年賀状プリントしてたんだろって? 当たり(笑)。いや、年賀状もあったがそれだけではない。必要があってかつて印画紙にプリントした画像を、10月に買ってそのまま放ってあった(その間に新型まで出てしまった!)ALPS MD1300という昇華型のプリンタで出力させられていたのである。結論から言うとプリントはとても美しく、その点について全然不満はない。このような精密な機械を廉価で大量に作ることのできるこの国の技術力は、これはもう大変なものであると全面的に感心するより他ない。ではプリントしながら何を考えていたか、というと、これはやはり紙にすることの必然性、みたいなものが、自分の中ではやはりどんどん揺らいでいて、できることならプリントせずに済ませたい、みたいな気持ちが余計に大きくなってしまっている。銀塩写真は紙に焼くことに必然性があった。特にネガであれば焼いてみないことには自分が撮った画像を見ることもできないのである。デジタルは大抵、撮った直後から液晶上でその画像を見ている。プリントする場合でも、紙になる前にモニタ上でシミュレーション的に見ている。つまり画像の確認作業を何度も済ませてから紙に乗せることになる。些細な問題と思われているこの工程の違いは、実のところ最終画像の決定行為に対して、少なからぬ影響を与えているのではないだろうか。それはネガから本番プリントする際に、ベタ焼きの時の調子にどうしても引っ張られてしまうことからも予想できた。その画像のファースト・インプレッションはとても強くその後の作業を支配してしまうのである。明らかにイメージの「刷り込み」現象というものが存在する。だとしたらデジタルカメラを直結することのできるプリンタを使えば、銀塩に近い感覚で作業ができるようになるのかもしれない。コンピュータ上に一度上げてからプリントする行為は、むしろ印刷の領域にあるのだろう。そうなるとやはり少なくともデジタルで撮った画像を写真のコア(そんなものがあるのかどうかは簡単に決めつけられないだろうが)のまま、つまり純度の高い状態で見てもらうにはモニタ上で見てもらうことがいちばん良い方法である、ということが考えられるのである。年の暮れだというのにこんなことをぐだぐだと考えて過ごしている。
1998/12/25

下のような文句を書いたまさに翌日、コダック株式会社デジタルイメージング事業部から一枚のハガキが届いた。「コダックジャパンのホームページ(http://www.kodak.co.jp)にアクセスしてください。お使いのカメラのファームウェア(カメラ内のプログラム)がバージョン3.1未満の場合はファームウェアのバージョンアップによってカメラの機能アップがはかれます。」とある。おー、いいじゃない。ぜひこの調子でがんばっていただきたいものである◆世は今やメガピクセル時代だが、デジタルカメラ出始めの頃の25万画素ぐらいの、デジタル臭いギザギザ画像が最近なぜか恋しくて、CASIOのQV-10の中古を探していた。今日、7980円で何とまあ新品同様(というよりこりゃ完全にデッドストックですね)のものを見つけて早速購入。その勢いでFUJIのDS-300の中古(こっちはほどほどにボロボロだがおまけのエクステンションユニット付き!)まで購入◆こんな買い物をしたせいで、150万画素の最新鋭機を購おうと思って確保しておいた予算はすべて旧型機に化けてすっ飛んでしまった。ううぅ◆考えてみるとわたしの場合、デジタル撮影した画像を紙にプリントすることを全く考えていない。ってことは150万画素機を買ったところで今のところ持ち腐れになってしまうわけだ。ここでバカボンパパ(最近また流行ってますね)風に「これでいいのだ」と強引納得。
1998/12/21

1998/12/21 Tokyo
カメラをバージョンアップする、ということについて。それは買い替える、ということではなく、デジタルカメラのファームウェア(動作プログラム)のバージョンアップのことを言っている◆デジタルカメラは使っているうちに、それがデジタルであるかどうか、だんだん考えなくなってしまうのであるが、バージョンアップして今までなかった新機能が現れたり、電池の持ちが多少よくなったりする、そんな変化に遭遇すると、実はこれはやっぱりコンピュータなのだな、ということをふたたび認識させられてしまう。もちろん銀塩写真のカメラであってもきょうびCPUのひとつやふたつ内蔵しているのが当たり前だ。しかしその動作プログラムを(ユーザが)更新する、というような行為は今のところ寡聞にして知らぬ◆わたしの使っているKodakのDC210というデジタルカメラは、アメリカのKodak本社ページからは最新版のファームウェアが自由にダウンロードできる。これによって日付の画面書き込みができるようになったり、液晶画面のメニュー言語をドイツ語やらフランス語やらに変更できる(だからどうした、というところもあるのだが、もちろん日本語も入っている)◆ここで面白いのはメーカ側の考えるユーザ像が、日本とアメリカで明らかに違っている、という点である。つまりユーザにどこまで委ねることができるか、という境界線が、日本とアメリカではちょいと違った位置を走っているのだ◆日本のユーザはマニアと「お客さん」ばかりで真ん中がない。徹底的にいじくり回す少数のユーザがいて、一方の大多数は自分はお客さんであるからいたれりつくせりサービスせよ、とばかりに踏ん反り返っている。こういうユーザ構造だとメーカとしては「ちょっと協力してくれるとぐっと良くなるんだけどな」的情報は危なくて流せないのだ。提供したところで、何だそんなことまで客にやらせるのかよ、的なネガティブな反応が帰ってくるのが関の山だからだ。それでもバージョンアップを、という声に対しては、サービスステーション送りで何万円いただきます、みたいな対応になってしまう。悲しいね◆アメリカという文化の特徴のひとつは、自分で何でもやってしまうという点にある。ユーザにも「あなたのリスクでやってね、保証はしないけど良くなるよ」と割り切って何でもやらせてくれるようなノリがある。わたしとしては全面的にこちらの方が好ましい。責任は自分で負うから、もっと自由にやらせていただきたいのである◆もちろんこの文化の延長線上には、他人の家の庭先に好き勝手に巡航ミサイルを打ち込んで「正義の味方」を決め込むような厄介な顔も見えてしまうのであるが。
1998/12/15

1か月ほど実験的にやってみたプロジェクトを、本日より jsato.org の方で公開する。ただひたすら毎日、その日の「日付」を撮ってみようというだけの極めて地味な企画である。頭で考えると面白そうに思えて、始めてみるとつまらなく感じられた。自分の性格では1週間で挫折すると思えたが、不思議なことに1か月以上続いてしまった。そこで試しにページとして組んでみると、よくわからないが、何かちょっとした引っ掛かりみたいなものが出来かけているようにも思えた。せっかくだから、いったい何が見えかけてたのか、わかるまでは続けてみることにした。もし半年で途絶すればおそらく何にもならないだろう。でも2000年を越すまで続けられれば少しは面白いものに見えてくるかもしれない。もちろん単なる数字の並びの遊びのようなものにすぎないのだが、1999/12/31→2000/1/1という特異な境界を挟んで生きることができるのはこの時代に生まれた特典みたいなものだろう。さーて、その2枚をどこで撮ることになるかなあ。
1998/12/02

1998/12/02 Tokyo
23年前、つまり1975年の録音テープを聞きながらこれを打っている。これがまあ何と、ほとんど完全に聞けるのだ。再生装置が良くなっている分、むしろ当時よりいい音で聞こえるぐらいだ。別に特殊な保存をしたわけでも何でもなく、本棚の片隅に放置してあったテープだ。そもそも磁気データというものは、太陽が何かの拍子にイレギュラーな爆発をして強烈な磁気嵐が地球にやってくれば一巻の終わり、ということになっている(本当か?)。しかし幸いなことにこの23年間、磁気嵐は起こらなかった。したがってアナログながら磁気情報を今でも取り出すことができる。23年前の自分の声(まだ声変りしてない!)を聞く、という行為は極めて不気味だ。この感覚は写真でも起きるが、聴覚情報の方が何だか身体感覚を直接的に刺激するらしく、気持ち悪さは一層強い。それにしても依然として時間というものがわからない。どうやったら時間のしっぽを掴むことができるのであろうか。
1998/12/01

1998/11/30 Tokyo
12月1日午前0時を期してデジタル系のプロジェクトを別サイトに分離独立させた。アリ塚のようになってしまったmicrotopographic webから切り離して、少しは軽やかな動きをさせてやりたくなったのだ。当分の間、コンテンツは「記憶型境界線」しかないのだけれど、すぐに新プロジェクトも載せるつもりだ。写真画像を日々サーバに蓄積していくことが、何だかわからないが「何か」をしているような微弱な充足感をもたらしてくれるように思う。蓄積の先端、鍾乳石筍ならぬるぬるした先っぽの部分こそが、時間の切り端としての「今」なのだ、という気がする。当分はまだまだ暗中模索で行く覚悟。






←【11月の日常】へ

UP

microtopographic web
Copyright (C) Sato Jun Ichi 1998