h u m d r u m【 埋 没 す る 日 常 ・99年1月】

●なぜ個人のWebページには必ずといっていいほど日記ページがあるのだろう●しかし誰のページでも読んでいちばん面白いのは実は日記系ページだったりする●埋もれていく無意味な日常をあえて無編集のままだらだらと記述し撮影し蓄積してその場で公開することで何か意味が発生するとでもいうのか●これはその実験●



1999/01/23

1999/01/23 Tokyo
いま都合3台のデジタルカメラを使っているのだが、その中でも[Days]プロジェクトのような日常の極みを捕らえるのに最適なのが、このCASIO QV-10であるように思っている。もう4年も前の、61380画素なんていう今では超々低解像度のデジタルカメラである。通常の感覚から言ったらこれはもう完全にお払い箱だろう。でも去年の暮れに新古品を見つけて買ったわたしは毎日持ち歩いて淡々と日付を撮るのに使っている。そもそも現在のデジタルカメラのフォーマットというかスタイリングというか、標準的なデジタルカメラの在り方のようなものを決定的にしたのがQV-10である。物理的な軽さは言うまでもなく、レスポンスの悪い今のメガピクセル機に比べて実にスカスカっと動く感じが今でもとっても新鮮である。そういえば発売直後に新しモノ好きのわたしの師匠が早速購入したのを触らせてもらったことを思い出した。何だか「シャッターを切るという行為」の敷居が思いっきり下がった感覚がしたことがちょっとした衝撃だった。どんなにフィルムを湯水のように使えるシチュエーションであっても、どんなに軽いシャッター軽いモータードライヴを備えているカメラであってもこうはシャッターが軽くはない。フィルムを使うカメラでは絶対に考えられない「シャッターを切るという行為」自体の軽さ。これは同じ軽さという尺度でも次元の違う尺度における軽さなのだと思った。さらに光学ファインダがない、という構成も新鮮だった。QV-10以降の機種がおしなべて光学ファインダを備えるようになったという現象は、単純に電池の消費を押さえるためと、LCDモニタの追従性が良くないことを従来型の技術でフォローすることのためだけを目的にしている。これはある種の退行と言ってもよいのだろう。電子的に記録されるものはやはり電子的に同時モニタされるべきなのは言うまでもない。撮ったつもりのものと実際に撮れたものが違っているのはモニタリングではないからだ。閑話休題。それにしても今QV-10を使うことは、カメラとは所詮は画像入力装置でしかないというドライ&クールな割り切りを再確認することに通じる。これは毎日、日付を撮るという行為が、生きるということは所詮、与えられた時間を消費して果てることでしかないことを毎日再認識することに通じるのと、ちょうどよいマッチングを構成してくれているように思う。
1999/01/17

1999/01/17 Tokyo
日付、というものに必要以上のこだわりを持つようになったのは、やはり1年前に河原温の作品群(東京都現代美術館/河原温・全体と部分/1998.1.24-4.5)に接してからだと思う。もちろん以前から日付、あるいは暦という尺度について人並み以上に関心があったようには思っている。しかしここで人並み以上、という比較に意味があるかどうか。人並みの興味、というのはたとえば先週の月曜。平成というローカルな時間尺度を使った場合に1が5つ並ぶから記念切符をどうぞ、みたいな現象。これは記念切符を購うかどうかは別として一般的に理解されている感覚ではあろう。何らかの面白い数字の並び、ある種の特異点。それに関心を示すのはまあ、そんなに変な話ではないのだ。ギャンブルの多くはこのシステムによって成立しているのだから。そうではない、何でもない日付が並んでいる壮観が好きだ。どこまで行っても平板な「平日」の並び。その恐ろしいまでの退屈の連鎖に取り憑かれている。いやいや。しかしそれとて1999.12.31→2000.1.1という絶対的な特異点が近づいているからこそわたしでも取り組める対象となったのであろう。その特異点まで30年以上離れた時点で、のっぺりとした何でもない日付群と取っ組み合いの格闘を行った河原に比べたら、わたしなんぞはいやになるほどの凡人である。
1999/01/07

1999/01/07 Tokyo
正月早々、ドイツに送るポートフォリオのプリントに明け暮れている。プリントといっても暗室で印画紙を焼いているわけではなくて、コンピュータに向かってプリンタにデータを送って、予定したトーンがちゃんと出てくれるかどうかプリンタの前で柏手を打ったりしている。しかし使う神経はあまり変わりがないようだ。月曜に時間を作って撮影に出たものの、画像を処理してアップする時間がとれないでいる。レッドツェペリンを聞きながら仕事してて、ふとアナログレコードのライナーノーツを見て、その日付が1979年であることに気がついて愕然とする。1979年といったら20年前だ。20年前、1999年というのは遠い未来の、ほとんど冗談のような先の話だった。しかし今、しっかりわれわれは1999年という時刻の中に立っている。冗談が冗談でなくなっている。そうだ。冗談は続けて言っているうちに冗談でなくなることがあるんだ。だったらどんどん冗談を言って生きて行こうと思った。






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