H u m d r u m【 埋 没 す る 日 常 ・99年7月 】
●埋もれていく無意味な日常を無編集のままだらだらと記述し撮影し蓄積して公開することがそのまま 作品 日常となる●

1999/07/31

1999/07/31 Tokyo
●昨日、自宅事務所に「専用線」がやって来た。変な言い方なんだけど、まさにやって来た、という感覚でとらえている。契約上はまだ正式な開通でないのと、独自ドメインjsato.orgのネームサーバの変更が、internicのデータベースに反映されるまで時間がかかるので、目の前のPCがwebサーバになるまでにはあと何日間か要する。しかも以前のゾーンファイルデータの生存期限をやたら長くしてて、うっかり直前まで変えていなかったため(このミスはネット管理者としてはとってもダサいことでしてね・・・涙)、当分古いデータがネット上のあちこちに残ってしまうことが考えられる。jsato.orgを見ようと思ってもエラーになって出ないこともあるかもしれない。おや?ついにjsato.orgつぶれたか〜とか思わないで、気長に待ってほしい。安定してjsato.orgを見てもらえるようになるまでに、場所によってはおそらく10日以上かかってしまうのではないかと予測している●で、自分の生活環境の中にいつもInternetくんがいる、という状況にまだ慣れないでいる。PPP接続を切る、という区切りが存在しないので、いつまでもずるずるモニタの前にへばりついている。やたら長いメールを書きまくる、複数のコミュニティに長い投稿をする、普段ぜったいに見ないようなサイトを見て回る、朝起きたらニュースサイトに行って、やっぱりもう新聞いらねえな、とか言いながら横書きの記事を読む●ネット空間がいまひとつリアルな存在になっていかない、ということが言われて久しいが、おそらく生活空間が常時接続されれば、状況は一変するだろうと思っていた。で、今回やはりそれは起こり得ることだということを確信した次第。専用線でもCATVでも衛星でもいい、とにかく常時接続はわれわれの生き方に絶大な影響を与えることになるだろう。そしてそれはテレビ以上の影響力となって社会を変化させていくのだろう。そしていつしかそれは当たり前のことになっていくのだろう。何らかの予期しない変化でも起こらない限りは。
1999/07/26

1999/07/26 Tokyo
●引っ越しだの何だの、環境整備というか生活の立ち直しというか、そんなことをやっていたらあっという間に3か月だ。新しい陣地を作って補給を受けたら、またバトルだー(笑)。今度という今度は、とか思うがそんな気負いは止めたほうがいい。ただ気になるのは時間の流れだけだ。昨日があって今日があって、あるかどうかわからない明日があって・・・その限りない繰り返し。いや本当は限りはあるのだが、誰もそれは見ないようにしている。その流れの中で感じて考えることを視覚化していくこと、そしてそれをなるべく多くの人と共有すること。あ、そうだ!共有だ。問題はこの「共有」にある。「この写真はわたしが撮った、だから勝手に使うでない!」という主張(誰でも言っている)は、共有という概念に反するのではないか?そのことをずっと、考えているように思う。しかしいまだに結論は出ない。どうしたらよいのでしょうね。
1999/07/18

1999/07/18 Tokyo
●根本的な部分からの変革を行っている、つもり。たとえばこんな具合だ。Macintosh上でPhotoshopというコンピュータ写真処理のスタンダードを止めてみる。代わりにFreeBSD(もちろんこの場合Linuxでも全く構わない)上でGimp。フリーOSの上でフリーの画像処理ソフト。いや、あんまりフリー=タダ、ということを強調するのも意図に反するのであるが、要するに手間さえかければソフト自体のお代はタダ、というのが今のわたしの生活信条と完全に一致しているところでハマっている。つまりコマーシャリズム的な価値観から遠く離れたところで成立する芸術表現は、やはりコマーシャリズムから遠く離れた環境の下で制作されるのがふさわしいように思う。たとえば100万円の仕事をこなすためには10万円のソフトを買って使えば元はとれる、というようないわゆる従来のプロのやり方、というのを否定するつもりは毛頭ないのだが、今の自分はそういうやり方の仕事をしているわけでもない。だったら約10万円のPhotoshopを買うのはやはりふさわしくないだろう。うーん、考えていることを言葉にするのがとっても難しい。ものすごくぶっちゃけて言えば、ソフトウェアそのものに代価を支払うという構造は何だかちょっと古くさいぞ、ということをわたしは言いたいのかな???●ソフトウェアのあるべき姿、というのをずっと考えていた。もちろん自分で有用なフリーソフトを世に出したりするような才覚は持ち合わせておらず、何年か前に超マイナーな言語のフォントをいくつかリリースしたぐらいなので全く大きなことは言えない。でもその問題意識だけはずっと保持してきたつもりだ。いきなり極論。ソフトウェアに売り値段をつけるのはやはり本当に間違っている!●今、これを打っている環境はすべてフリーソフトだ。OSはFreeBSD、エディタはMule、カナ漢字変換はCanna。考えてみるとこれは凄いことだ。ある人のプログラミングの仕事がお金という資本主義的価値に換算されることがなく、それでもとにかくなぜだか仕事が成立しているということ。資本主義の理屈を超越した現象があちこちで起きているのだ。資本主義というシステムはこんなところから綻び出しているのだ●そんな時代に写真家という存在は一体、何ができるというのか。何を供給できるというのか。Webは金にならない、なんて資本主義べたべたなことばかり言っていていいのか?何か金儲け以上の仕事をやらないわけにはいかないだろうが!!
1999/07/04

1999/07/04 Tokyo
●道を歩いていたり、電車を待っていたりする時、突然に考えがまとまることがある。まるで飽和溶液から結晶が析出するような感じで、まさに考えが結晶化したようなものなのかもしれない。今日はたまたま電車が空いていたのでノートを取りだして内容を走り書きしておいた。それによると・・・・(1) 絶対的「今」の肯定とその肯定力。(2) 「今」が蓄積していくような装置としての作品・・・・なんじゃこりゃ???●その場ではすごいいいことを思いついた、と思って、あとで考えてみると全然大したことなかった、の典型みたいである。しかし何とか解釈を試みようと思う●絶対的な今、というのは将来に何かを期待する今でも、過去を振り返る今でもなく、今があるだけ、の今ということを考えていたようだ。肯定力、ってのはですね、例えば、最近の女子高生って何かとっても自信満々な顔してるやつが多いんだけど、それって彼女らが振り向くべき過去も持たず、期待すべき未来も設定しない、今が一番いい年頃なんだから今が楽しけりゃいい的生き方をしているためだと思うわけだ。いい悪いの問題じゃなくて、今を肯定する者はとにかくなにがしかの力を持つんだな。その力がネガティヴな方向にアダ花のように噴出しているのが現代女子高生。同じ高校生でも野郎の方は逆に全然自信のある顔を見かけない。それはつまり将来を背負わせられているってことだ。今でもこの国はそういう構造なんだね。話がずれてきた。実は例えばどうでもよい。要するに今を肯定するとそれは力だぞーということを漠然と思ったわけだ●で、2番目の方はそれと関連があるようなないような内容なんだけど、つまりその一瞬の連続としての時間の流れ(それを肯定することは力の連続、ということになる)というものを考えれば、一瞬を肯定していくことは強い力の行為であって、例えば自分になぞらえれば毎日日付を確認してシャッターを押すことはすなわち力の行為であるってこと。もし将来に何かを〔過去として)残そう、なんて意図でやっているとすればそれは弱い行為ということになるんだ。そういうわけで、Daysプロジェクトは、結果の集合体として残っている過去の日付画像が作品というわけではなくて、撮影行為を継続させていく装置こそが作品だぞーということを考えていたらしい●これは何のために作品を作るのか、という根源的な問題に照らしてみればはっきりしてくる。今を確認し、肯定するため。言い方を変えればあー、おれは今生きてるなあといつも思いながら生きていること、そして撮ること。何か賞をとって褒めてもらおうとか、そういう目標で作品ができていくこともあるしそれを頭から否定するつもりはないが、Web空間においては幸いそんな価値付け構造ができていないから、そういった社会性のある明確な目標設定に基づかない単なる行為の連続、なんてのも作品として成立してしまうんじゃないかと思っている●その連続性のことを称してわたしは「Web(上の作品)は味噌汁である」なんて煙に巻いたような表現で言ってしまう。血肉化した日常行為としてのWebとのつきあいこそが作品なんであって、例えば○化庁がWeb上で会員制美術館(リンクしておこうと思ったんだけどURL忘れた)やったりするようなのはあんまり面白いことではないないような気がする。




←【99/6月の日常】へ

microtopographic web + jsato.org
Copyright (C) Sato Jun Ichi 1999