H u m d r u m【 埋 没 す る 日 常 ・99年12月 】

1999/12/31

もう一度、地べたから始め直してみよう、と思った。webの特性であるリアルタイムに近い情報の保存再生と考えの表出を通じて何ができていくのかを、自分でも実験してみようと思う。従来の手法では作品化されないで埋没されていくような情報でも、このメディアではどうやら残すことができるようである。作者側の取捨選択を経て唯一無二の作品ができあがっていくのでなく、各々の受容者との関係において各々の作品ができ上がっていくような構造が見え隠れしている。

●26か月前、この場に掲げた第一回文章の末尾を再度、持ち出したのには理由がある。本日、1999年12月31日をもって「埋没する日常」を止めることにしたのだ●瑣末な日常の感覚を他者に伝達するという目的に対して、この26か月間、文章という媒体はまあまあの性能を出してくれたように思う。しかしわたしはこの段階に安住するつもりはない。母語による文章という安易かつ安全第一な方法をできる限り閉ざして、あえてそれを使うのに努力や工夫を要求されるような媒体を使って思考の表出を行ってみることにやはり興味がある。今後はそういう不安定な媒体につきまとう困難や危険をむしろ甘受することによって、もっと大きな構造と格闘していきたいと考えている●というわけで、これでわたしの1900年代も、終わり。

1999/12/24

1999/12/24 Tokyo
●昨日は久々の全面的休日だった。何年かぶりに、特に理由もなしに革のライディング・ジャケットを着て外出してみた。跨がるオートバイもないのにライディング・ジャケット。まるで「陸(おか)サーファー」である。お笑いだ。弛緩した自律神経を締める意味も込めて、もう一度オートバイにでも乗るのがいいのかもしれない。検討してみよう●この1か月以上というもの、生業であるUNIX上での抽象的な仕事ばかりで、本来の仕事であるべきイメージ生成(あえて写真と言わないようにしているのだが、やはりどうも無理があるなと自分でも感じている)が、まったくお留守になっている。意識はイメージの処理を渇望しているのに、それを展開するメモリーの領域はない、といったような具合だ。しかもそんな折り、過去の写真の仕事に関して鋭い突っ込みをメールでいただいたりして、苦境に立っている感じがいよいよ濃厚だ●言葉、の問題。日本語、英語、ドイツ語。自分の考えをなるべく正確に他者に伝える技術は常に研いでいなければならない刃物のようなものだ。いや、それより正確に伝わるという幻想に対してわたしはどういうスタンスを取ればいいのか、それがいまひとつはっきりしないことこそが、つらい。言葉を全面的に信用すべきなのか、それとも言葉は60%未満の伝達率で成立している「まあだいたい」な伝達経路とみなして、あきらめるのがいいのか。いよいよわからない●言語の抽象性と視覚(特に色彩)の両極に、見事に二極分化してしまっているらしい今の自分の問題意識が呪わしい。
1999/12/18

●こういうことを書いたら負けなので書きたくないと思っていたのだが、このところとても忙しい。おまけにいろいろと細かいトラブルまで降ってくる。こんなことを書いても何か変化が起こるわけでもないが、自分の今の状況を前提条件として、つづく話を了解してもらえることもあろうと思ってあえて、書いておく。忙しいにもいろいろあるわけだが、自分の意志に反して忙しい、という忙しさを、この場合は指している●今朝、起き抜けにメールをチェックしたら、中の1通にWO+RDの小山雅嗣さんからひさびさのメールがあった。このところサイトも更新されてないような記憶があったので、どうされていたのかと思っていた。それでメールには何と、佐野元春さんとのコラボレーションサイトができたから見に来いという。そういえば何かの記事で、WO+RDを見てサイトを気に入った某大物アーティストとの仕事が進行中というような近況を何か月か前に目にしたことを思い出した。さっそく行ってみると、なるほど本当だ。これは大したものだ。サイトはまだプレオープンといった様子で、内容は予告ばかりなのだが、今後ここで一人のミュージシャンとひとりのデザイナーが繰り広げていくことになるであろう仕事の、質の高さを十分に予感させてくれる。eTHIS、興味のある方は行ってみてほしい●このところ、わたしは言葉の重要さについていろいろと考えさせられている。この場合の言葉は、話し言葉ではなく、書き言葉だ。メールやWebでの対・個人、あるいは対・複数の個人との意志の疎通をになっているのは、もう全面的に書き言葉だ。書き言葉の重要度は以前よりずっと増している。わたしたちはそのことについてもっと真剣に考え、改善するための努力をしなければならない。なぜなら書き言葉をいい加減な状態で流しておくことは、それによって受け手に形成されるであろう送り手の人格(の投影)を、取り返しのつかない形で歪めてしまうことを招くことがあるからだ●思い当たる節は以前からあった。それは書き言葉を生成する環境によって、結果として出来上がる書き言葉の質が全く変化してしまうという問題だ。わたしは今、主に2種類の書き言葉生成環境に暮らしている。ひとつはMacintosh上の「EGBridge」というかな漢字変換プロセッサ。もうひとつはUNIX上で「かんな」という、こちらはフリーのかな漢字変換プロセッサだ。問題があったのは後者で、このフリーのプロセッサは、商品版のものと比べて、明らかに変換がお粗末である。UNIXをサーバ用途としてだけ使ってきた今までは、それでも大した問題は起きなかった。サーバ上で打つメールは、多くは連絡事項や技術的な問題に関するものばかりで、緻密な言い回しや微妙な熟語の変換などは不要であるからだ。しかしこのところ、厳密にいうと秋以降、ほとんどのメールの読み書きをUNIX上で行うようになってからというもの、その問題を解決しないままに大量のメールに対し、不向きの環境で向き合っていた。その歪みが最近になってじわじわと出始めているような気がしてならない●それについて先週ぐらいから、少しずつ改善をおこなっている。まずキーボードの統一。たとえばUNIX上のエディタで文章を作る場合、ControlキーがAのすぐ左側にあるキーボードでないと、とても打ちにくいという問題がある。そのようなキー配列の問題は、わたしは今まで瑣末な好みの問題であると思って、あまり気にしていなかったのだ。だからControlキーがAの左にあるものと、もっと下の方にあるものとを混在して使っていた。そのことによって何が起きるのかと言うと、打ち間違いの多発による、文体へのマイナスの影響である。明らかにこれは放置しておいてよい問題ではなかった。だからキーボードはできる限り、同じ配列のものに統一した。さらにかな漢字変換プロセッサについても、かんなを止してWnn6という商品版のものをインストールすることにした。これがまだ使い始めたばかりでチューニングができておらず、大層使いづらい。しかし一度は通らなければならない段階なので、しかたなくやり過ごすことにしている●書き言葉の重要度は多分、今後さらに増すことだろう。それに対して今、見直しを行うことができたのはよいことだった。たとえば小山さんのWO+RDにちりばめられているような、意志がそのまま言葉に結晶したような書き言葉のありようは、わたしにはまねできないものだ。しかし書き言葉を大切に取り扱うということについては、わたしでもできるはずだ。
1999/12/06

●これを読んでくださっているみなさんにお願いがある。このページを読んで、彼女に「今、聞くべき音楽」を教えてやってほしい。好き勝手に、自分の好きな音楽の話しをぶちまけていただくのでも全くかまわない。実は彼女はわたしの教えている学生の一人なのだが、そういう事情があるとは今まで知らずに接してきたのだ。もし本当に難聴になっちゃうのだとしたら、それはとても気の毒なことだが、わたしが気になっているのはそのこと自体ではないようだ。普段、いい加減な気持ちでいろんな音楽を聴き飛ばしてきた自分の今までのやり方を振り返るいい機会になった、などと軽く流せない何かを考えてしまった。うまく説明する自信がない。情報を摂取する必然性の強度の問題、か。自分の耳があと数年以内に聞こえなくなる、あるいは自分の目があと数年以内に見えなくなる、そういう切羽詰まったシチュエーションにおいて、人間の情報摂取のモチベーションに加わる強力な加速状態というものがあるだろう。それが何かしらとてもとても興味をそそるのだ。だめだ。今の考えを全くうまく言葉にすることができない。
1999/12/05

1999/12/05 Tokyo
●Webというものがわかりかけたような気がしていたのだが、ちょっと気をそらすとすぐにまた、わからなくなってしまう。もっと正確に言うと、Internetとのフルタイムのつきあい、すなわち絶え間のない情報の入出力(いやかなりバランスを欠いた超過剰入力だ)という状態が人間にとって本当に幸福をもたらすのかどうか、がわからなくなってしまう。どうもそのあたりの自分の確信というものが実は、無根拠なやや感情的なものであったことに気が付いてしまうのだ。遮断する、感度を下げる、出力量を増やして収支バランスを回復する・・・いろいろと対策は考えられるが決定打は、もちろんない。もしかすると単に身体性能の問題なのかもしれない。紙の上に印刷された文字を、あたかも米粒を一粒一粒、箸で拾うがごとく読んで育った世代のわたしたちにとって、このターボチャージ状態を耐えることが果たしてできるのかどうか。生まれたときからコンピュータがあって、TVゲームで育った世代とはその領域の身体性能は違っていて当然だろう。またしても境界線世代の悲哀。




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